意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

意拳(大成拳)の練習時間

今回は意拳(大成拳)の練習時間について、簡単にまとめてみたいと思います。

結論から言うと、有名な先生方は1日に4〜6時間ほど練習しているエピソードが書かれていることが多いです。

薌翁の門下に入ってから、張恩桐は師を尊重し、道を重んじ、苦労を惜しまなかった。毎日6時間の練拳を行い、その内訳は樁を約5時間、摸勁と走歩を約1時間行った。(李康『張恩桐先生之樁功』より)

(毎日の指導時間は)朝・午後・夜で2時間ずつくらい。一番少なくても6時間はやっています。大体オーバーするんですけど(姚承栄『フルコンタクトKARATE2014年10月号』より)

1回あたりの練習は3時間程度でそれを1日に2、3回程度分けていることが多いようです。練習内容は流派によりますが、やはり站樁を主として、試力を同等か1/3程度行って、それ以外の時間で歩法、推手などを加えることが多いです。

姚宗勲先生や澤井先生の時代はさらに多く練習していたようで、一日中練習していたというエピソードが出てきます。

(姚宗勲先生と澤井先生について)二人は技術面では互いに研究し、感情的にも最も近く、仲がよく、二人はいつも一緒に食事をし、酒を飲み、しょっちゅう徹夜して朝を迎えた。しかし、遅くまで酒を飲んでも、次の日には早く起きて一日十何時間も練習した(姚承光、姚承栄『武術(うーしゅう)1993年春号』より)

練習時間については基本的に早起きして朝に練習して、休憩を挟んで夕方〜夜に再度行う流派が多いです。特に澤井先生は夜明けを強調されていたため、太気拳ではその辺りに立禅を組んでいる方が多いのではないでしょうか。

これは偶然ではなく、伝統的な中国哲学では質の良い気は朝や夜に生まれると言われているため、その時間に合わせて練習していると考えるのが妥当だと思います。ただ、先生方もやらないよりはやったほうがいいと語っているため、どうしても時間がなければ、昼過ぎなどに練習しても良いとは感じます。

時間帯には夜明けが良いとか、夜の12時〜2時が良いとか色々な学説があり、道教や仙道、気功などでは意見が分かれているところですが、意拳(大成拳)で夜中の練習を勧めることはあまりないようです。

ところで1回の站樁の時間については40分〜1時間程度を勧めることが多いようです。

初学者がどのくらい站椿を立てばよいかは自分で決めればよい。体質や正確などの素質要因の違いにより、ある人は一度覚えたらすぐに比較的長い時間立てるし、ある人は10分或いは5分でも耐えられない。このような状況ではけっして無理やり時間を延長してはならず、少し休むか或いは暫く歩いたりしてからまた立てばよいのである。時間が経てば40分、一時間と自分で延長していけばよい。(楊徳茂『站樁功概論』佐藤聖二訳より)

多い人で1回に2〜3時間は樁を組んだという人もいますが、この辺りは連続して行っているかは不明です。ただ、練習していれば最低1時間は連続して立てるというのは間違いないと思います。時間は間架の高低や大小にもよるので一概に時間でまとめるのは単純化しすぎていますが、一種の参考にはなります。

澤井先生は「毎日気狂いのように暇さえあればやったものだ」という旨のことを書いていますが、太気拳の先生は全体的に意拳(大成拳)の先生方に比べると短めで20〜30分程度と話されていることが多いです。比較的姿勢が低いからなのか、すでに大悟しているので短くて済むのかは分かりませんが、短期集中型の傾向が見られます。

短いといえば、韓星垣系統、韓星橋系統の意拳では間架を5分程度の細かい時間で変えて、同じ形で練らないという話もあります。目的は実践に応じて、次々に異なる勁や意を求めるためだそうです。トータルの時間が短いということはないでしょうが、この辺りの時間にも流派性があります。ある形意拳の先生は(三体式は)15分立てば十分と言っており、何が正しいのかは難しいところです。

個人的には一定時間(20分前後)を超えると出てくる反応があると感じており、最初はいたずらに動かない方が良いと考えていますが、求めるもの次第なので興味があれば色々試してみると良いでしょう。澤井先生も1時間立てるようになれば無心になることができると語っています。

また、長ければいいというわけではなく、当然質も大事です。

練功の時間は学ぶ者が自分で掌握するのが最もよく、軽松を覚え、全身が伸び伸びとすれば、多くの時間立っても良く、疲労、健体、神思が乱れたなら、練習を停止し、無理に耐える必要はない。(王薌齋『養生樁簡介』より)

長期的な時間軸について書くと、合宿のようなものを行い、そこで一気に伸びるケースも割と見られるように思います。姚兄弟は姚宗勲先生が数年間集中して教えたことで成長したそうですし、澤井先生も王薌齋先生の元で学んだのは数年程度です。姚宗勲先生も同じぐらいだそうです。この辺りをどう解釈するかは難しいところですが、やはり短期間の量が質に転化する部分は一定あるのかなと思ったりはします。上に1日6時間と書きましたが、一生涯それを堅持しているのではなく、全身が整になった段階で少し減ってもおかしくない気はします。整った先生ほど量より質という文章を書いている印象です。

一方で、高手が出てくるまでに一般に十年の功夫が必要とか、歳を重ねても以前上達しているという話もあり、気の長い話もあり、短期間の集中で一気に伸びることはあっても、それで完成というわけにはいかないようです。出典を失念しましたが、澤井先生が「立禅を組めば気はすぐに出るかもしれないし、数年、十年経っても出ないかもしれない。二十年経っても出なければ見込みがない」という趣旨のことを言っていたのが個人的に印象に残っています。

本当の短期間(数ヶ月)で効果が出るかは稽古方法や考え方などによる気がします。王薌齋先生の直弟子のエピソードを見ると、ひたすら立っても何も掴めず、わかるまで疑問に思っていたという感想が多く、このような古風な方法だと気の長い時間が必要なのかなと感じます。逆に意念を用いた方法などは簡易的で、勁力を比較的感じやすいです。なので、すぐに効果が出るとも言えないし、逆にすぐに効果が出ないとも言えません。

まとめると、有名な先生方はそれ相応に練習して功夫を身につけているという当たり前の結論になります。中国武術における功夫は時間の積み重ねという意味で、当然ながら意拳(大成拳)もそこから外れないようです。