意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

勢(『大成伝習録』より)

現在の太極拳の大部分は理を講じ、理の上で法を講じている。良いものは法の上で理を講じているが、これらはどれも違う。理と法は、勢の上で講じなければならない。勢こそが主体である。なぜなら、本当に敵と対峙する時には緩急の変化があり、もし勢を講じずに、ただ理と法を講じるだけなら、いわゆる理と法はすべて立ち行かなくなる。一度動き出せば、すぐになくなり、使えなくなってしまう。敵との勢が出てきた後に、理と法を講じるべきであり、この時の理と法こそが用いることができるのである。拳を練習する際は、まず勢を提示してこそ使えるようになり、勢の基礎の上でこそ理と法を論じることができるのだ。

どこでも機と勢を得なければならないが、この機勢は無形なものであり、固定されたものではない。機勢の可塑性は非常に大きく、ある人は機勢とは身体がある状態にあるのが適切だと考えているが、実際にはそうではない。この状態は変化し拡大しなければならず、絶えず変化し続けなければならない。なぜなら、敵と対峙する時、安定した相手もいれば、機敏な相手もいるからだ。これによって自分自身を完成させる機会が与えられ、自分が前の人にも後ろの人にも適応できるようになる。だからこそ、この勢は変化するのだ。猫がネズミを捕まえる時のあの機勢を見てみると、静かに動くのを待っている。二匹の犬が喧嘩をする時のあの機勢は、乱れているようで乱れておらず、力の使い方も意の使い方も合理的だ。これは勢と勢が同じではないことを示しており、そのため勢を固定してはならない。一度固定すれば硬直し、死んだものになり、使えなくなってしまう。その時々の勢に従い、その勢を出すだけである。どのような勢を出すのか? 敵がどんな勢を必要としているかによって、その勢を出す。

勢こそが主体である。站樁と同じように、あの霊妙な状態こそが主体であり、要領が主体なのではない。なぜある人はこの樁を習得できないのか? それは彼らが自分自身を身体各部位の要領に固定してしまい、樁そのものが何であるかを掴んでいないからだ。樁そのものは、出来上がった完成品である。製造の過程において、必要なものは何でも取ってくる。まるで仕事をする時のように、ペンチやレンチが必要なら、站樁も同じだ。肩を少し沈める必要があれば、肘を少し垂らす必要があれば、これはそのペンチやレンチに相当し、道具に過ぎない。しかし今、多くの人は必要な道具を目的としてしまい、一日中これらの道具を練習している。このように練習してどうやって習得できるだろうか?

字を書くのも同じだ。人に字の書き方を教える人が、もし教え方を知らなければ、拳のわからない人が人に拳の練習を教えるのと同じで、教えることは全て間違っている。字の書き方を知らない人は、この一画をどう書くか、あの一画をどう練習するかなど、いわゆる筆法だけを教える。これらの筆画を全部書けるようになっても、一文字書かせてもまだ書けない。もし教え方を知っていれば、横は平らに、縦は真っ直ぐに書くように教える。まずこのようにさせ、このプロセスの中で、彼が書いたこの横に問題があることに気づき、それから問題を解決すればいい。主従は必ず区別しなければならない。この横が上手く書けていなければ、問題を見つけて上手く書けばいい。

站樁も同じで、まずそこに立たなければならない。立っているうちに、もしこの膝が正しくないことに気づけば、膝を調整する。ゆっくりと調整し、問題がなくなるのを待てば、自分で分かるようになる。ああ、なるほど站樁はこれをやっているのか! もしずっと正しくなく、ずっと肩はどうだ、脚はどうだ、肘はどうだと言っていれば、最後は全てこれらのことに陥ってしまう。これらは道具であり、樁を調整するのを助ける道具だ。まずそこに立ち、それからゆっくりとこれらの道具を使ってこの樁を完備する。これは形の面から言えば、さらに一歩深く言えば、そこに立ち、まず心と意を調和させ、その時に再び形を調整し、再び心を調整し、再び意を調整するなど、全体的に調整するのであり、単純に身体だけに注目するのではない。ただ身体でこのことをやっていては、主体が覆い隠されてしまう。立つ時は、意識は楽しまなければならない。楽しくなった後、足首の関節が松開し、脚が地に着き、人と地面が関係を持つようになる。一度楽しくなれば、身体も外の空気と関係を持つようになり、このような状態でなければならない。この時、どこがまだ不十分かを見て、そこを再調整する。これは全体的に一つの樁を把握するのであり、単純に最初から撑三抱七、肩撑肘横、梗着脖子、五指抓地などということではない。

先人は格物について語っている。つまり、練習しているうちに、この物事に適していると感じるようになるということだ。しかし人々はしばしばこの点で行き詰まり、格物の中で行き詰まってしまう。人々に格物致知させたいのであって、この生きた物事を固定化させたり、この生気のある物事を定着させたりしてはいけない。格物の目的は致知であり、練習しているのはあの生気に満ちた状態であって、方法ではない。

ある武術家はこの道理が分からず、拳を語る時、必ず生命力に満ちた物事を説き尽くそうとする。彼は主線を語らず、枝葉末節を語る。勢を語らず、勢の中で法理を見ることを語らない。単純に局所的なことをあれこれ語り、西洋の思考方式で中国の拳術の問題を研究しており、これは非常に幼稚だ。もし拳術を化学実験に例えるなら、彼らは生活の一時期を切り取って実験しているようなものだ。彼は この化学実験を生活全体の中に融合させない。二人の間の本当の対抗は激しい状態での対抗であり、彼らは平和な状態で、勢のない状態で、あなたのこの労宮をどのように使ったか、手の形をどのように使ったかなどを語っている。では主幹は何なのか? それは勢であり、我々が言うところの、起勢である。この物事は、どこで相手と接触しても、どこでも相手と関係を持つのであり、他のすべての場所は、相手を通り抜けて空であり、活である。

ある人は虚を用いないが、虚を上手く使うことができる。彼が虚を非常に上手く使う時、あなたの力が大きくても彼を打つことはできない。現在、拳術の中の良いものはますます少なくなっており、虚を使える人も今ではとても少ない。彼は平和な状態ではある程度虚を使えるかもしれず、あなたを一瞬で空振りさせたりできるが、あなたが彼に対して急になると、もうできなくなる。出勢している状況でまだ空になれる人なら、あなたは彼を打てなくなる。なぜなら、彼は出勢しているからだ。出勢は非常に重要で、出勢してこそ、虚実や陰陽、法理などのことを論じることができる。出勢し、空を用い、どこも中を守る。

人を打つ時は借勢することができなければならない。まず相手を硬直させ、相手を緊張させてこそ打つことができる。あなたが正しく行えば、相手が一度変化すれば硬直し、歩が硬直した時にあなたは彼を打つ。大成拳は主動的ではなく、力を使わず、速さを求めない。意が出た後、形は惰性である。あなたは後から発するが先に至り、相手が動かなければあなたは動かない。相手が一度動けばあなたはすぐにその勢を利用して彼を打つ。だから、あなたの身体は通達し、通暢で、障害がなければ、相手の勢を利用することができる。あなたは彼に勢を出させる勇気を持たなければならない。彼が出てこそあなたは対応できるのであり、あなたの心が通じてこそ彼に出させる勇気を持てるのだ。彼が出てくることはあなたにとって脅威ではない。なぜならそれはあなたが制御して彼を出させているからだ。

あなたが主動的に何かを使えばそれは混乱状態であり、主観的で盲目的で、惰性的である。あなたが主動的でなく、相手に主動させれば、あなたは彼の主動性を見ることでそれを見抜くことができる。これはなんと明晰なことだろうか? 受動的だと言いながら、実際にはあなたは一日24時間ずっと主動的なのだ。ただしあなたのこの種の主動性は受動的な形式で表現されるため、この種の主動性は相手には見抜けない。漁網が魚を捕らえる時、この網は主動的だと言うのか、それとも受動的だと言うのか? 見た目には網は静止していて、魚は主動的だが、網はとっくにそこで待ち構えているのだ!網の主動的な方法は静止することだ。形は静止しており、相手に自ら死なせる。あなたは何を急ぐ必要がある? 考えを持った途端、この拳は練習できなくなる。自我を持った途端、この拳は練習できなくなる。思い込みを持った途端、この拳は練習できなくなり、足の運びが滑らかでなくなる。拳の練習は道に合い、気が手まで貫けず、腰が正しく動かせず、出勢できなくなる。自分自身がこの物事を持ったらそれを外に出さなければならず、相手の背後まで出す。あなたの相手はあなたの一部分であり、あなたが一度放せば彼は出ていく。拳とは意感と自然の力であり、無意識に正しく行えばそれでいいのであり、それで十分であり、それで貫通するのだ。これが勢なのだ。

形意拳に「人を打つのは歩くようで、硬打硬進遮るものなし」という言葉がある。これも同じ意味だ。これは技法ではなく、気勢であり、勢で人を打つのだ。勢で人を打つのと技法で人を打つのは異なり、勢は防ぎようがない。勢とは何か? 勢は整体であり、勢は組織である。拳の力とは勢のことであり、出勢は、このような状態なのだ。身体というこの通道は十分に強大でなければならず、相手をこの力量と接続させることを保証できなければならない。既に通道になっていても、それでもなおそれを修練し、育成し、強大にしていかなければならない。

拳法の修練には、理、法、勢の三者が揃っていなければならない。勢は、必ず伝承されなければならない。あなたが拳を練習しても、もし勢を見たことがなければ、理が合っていても、法が合っていても、出来上がったものは違うものになる。もしあなたが絵を描くようなあの一撃を見たことがなければ、あの味わいや火加減を見たことがなければ、あなたはやはりできない。

では勢とは何なのか? それはあの弾性の状態であり、柔であり剛でもある。ふわふわとしており、ぐるぐると回っているあの物事だ。それは出ていけば戻ってこない。人を打つ時はこの物事を使って打つのであり、あなたの力が大きくてもそれに耐えられない。それは勁でもなく形でもなく、さらに力でもない。剛柔はなく、虚実はなく、速さの遅速もない。それはただ機であり、あなたが来れば、つながり、それで終わりだ。古人は急と緩について語っている。急に来れば急に応じ、緩やかに来れば緩やかに随う。なぜこのようになるのか? 鍵は機にある。中国文化とは、この機、すなわち機勢なのだ。

于鴻坤『大成伝習録華夏出版社より