意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

林肇侖談拳録

(一)

1.実戦間架:前手は鼻と同じ高さにし、指先は相手の鼻に向ける。後手は自分の口の前に置き、相手の口に向ける。前膝は前方に突っぱり(=頂)、後胯の付け根は安定させる(=腋)。

2.拳法の真伝は「低を練り、高を用いる(大を練り、小を用いる)」であるが、腿法は「高を練り、低を用いる」である。

3.高位の拳は拳心を下に向けて回転させ、中位の拳は直で出して拳眼を上に向け、低位の拳は拳心を上に向ける。

4.撑抱樁では両手は節が動けば必ず突き出し、曲がるときは必ず円となる。頭は突っ張り(=頂)、項は伸ばし、高い椅子に座っているかのようにし、背中は微かに寄りかかり(=靠)、両胯は安定させ(=腋)、重心は両足の中間に置き、脚掌に三分の二の力をかける。

5.鬼手鑽は、一方の手を敵の鼻に向け、もう一方の手を自分の鼻の前に置く。

6.人に発するときは、起は鼎を挙げるようであり、落は煉瓦を割るようである。

7.伏虎樁では後腿を後ろに引き(=拉)、前腿は突っ張る(=頂)。後ろを引いた後に腰をひねり(=拧)、両手で虎の頭を抱える。母指は上に突き(=挑)、中指は下に挿す。

8.降龍は上半身を前に傾け、地面と四十五度の角度を作る。前脚と後脚は直線を成し、右手は上に押し(=推托)、左手は下に押す(=下按)。虎口は胯部に近づけ、下に向ける。左手と右手の上下が争力を形成する。この樁は旋転の霊活さを訓練し、技撃時に威力を発揮する。

8.自分たちの仲間との練習では、正しいか間違っているかのみを議論し、勝ち負けにはこだわらない。他人との対戦では、勝ち負けのみを重視し、正しいか間違っているかは問わない。

9.試力時はまず開展を求め、その後で緊凑を求める。

10.摩擦歩は歩法でありながら腿法でもある。

11.深県集訓の功法には霊亀出水、三盘落地、車輪歩がある。

12.站桩は試力の縮小であり、試力は站桩の拡大である。力は立つことから得られ、試すことで知る。発力は単純に言えば渾円力の発動であり、推手はその運用を条件付きの実戦で知るものである。散手は拳術の総合的な体現であり、原始的意味での無条件の徒手格闘である。

13.意拳の訓練の核心は、精神假借、意念誘導によって、無力の中で有力を求め、不動の中で微動を求め、微動の中で速動を求め、速動の中で力の霊活な運用を求めることにある。

14.意拳は精神と意感の拳術を重視し、站樁は意念、動作、気力を統一し、身心が一致する最良の訓練方法である。

15.站桩は拳勁を得るための重要な手段であり、意拳の根本である。

(二)

1.技撃樁を立つときは時、前手、前膝、眼は一直線上になる。

2.摩擦歩は緩やかに練習した後、大動、快動、左動、右動に進み、速度を上げて練習する。姚宗勲先生は摩擦歩を練習する際、一度の往復に一時間かけた。

3.初めて試力を練習する際、活動試力を含め、固定された壁の角に向かって練習することができる。壁の角を想像上の敵と見なすが、敵は固定されておらず、動いているものとする。

4.腹部の鍛錬は重要で、站樁時には腹部を松とし、梢節(手から肘、脚から膝の部分)を緊とし、他の部位は松とする。腹部について、站樁時は長円、試力時は松円、発力時は実円とする。

5.試力時の空練では、想像上の相手があなたのふらついた時や偏った時に、突然様々な手段で攻撃してくる可能性があることを考慮に入れる。このような訓練があれば、推手でこのような状況に遭遇した時、余裕を持って対応できる。

6.試力時は、前脚が重要であり、前膝は頂、足は提踩を要する。引き戻す(=回拉)時には、膝は前頂を要し、後ろに引いてはならない(=回)。

7.単推手の練習では、一度手を出せば相手を控制する訓練を強化する。双手推手の練習では虚実を要し、虚は相手の中線を指す。

8.推手は多く練習し、各門各派と交流を深める。

9.前手の直拳には二種類の拳型があり、一つは立拳、もう一つは平拳である。練習時は頭を前に傾けてはならず、頭と脚が争うようにする。姚先生がこの拳法を教えるのに一年以上かかり、直拳をよく練習すれば、他の拳法も練習しやすくなる。

10.大小裁拳を練習する際、肘を上げる(=吊)ことを要し、このような拳法でこそ力がある。

11.拳を練習する際には、砂袋を打つことも大切で、練習時は脆勁があり、一触一緊ですぐさま松となる。

(三)

意拳丹田と周天功の訓練を重視しないと考える人がいるが、これは考えが不足している。このような観念は不完全であり、林先生は私たちに次のように教えてくれた。

一.丹田と周天功を練ることは、正しい思想の指導の下で、養生作用やその他の効果をもたらすことができる。これは伝統的な練功方法の一つであり、意拳の最初期の練習方法でもある。意拳はこの方法を完全に否定していない。

二.丹田は人体の穴位であり、その訓練特徴は「点」にある。周天功は人体の脉絡を通るもので、その訓練特徴は「線」を練ることにある。現在の意拳はこれらの「点」と「線」を練らない。現代意拳は「面」や「渾円」、または「整体」を練るとも言える。これは人体と精神の全面的な訓練である。薌老は「全身無処不丹田」という見解を提出している。身体の各部分が絶対に健康でのびのび(=舒适)としており、精神的な愉悦が意拳の目標である。

三.術語中の丹田は腎のホルモンが集まる所であり、膻中(上気海)は胸のホルモンが集まる所である。訓練を通じて、ホルモンはエネルギーや体液の形で穴位周囲に集まり、その免疫機能を発揮して人体の健康を維持する。意拳の重要な機能は、人体のすべての腺の健康な運動を促進し、それらの免疫機能と潜在能力を十分に発揮することである。これは丹田周囲の腎や大小周天の運行路線上の腺にのみ注目するのではない。

四.意拳は混元の気と渾円力の鍛錬を重視しており、人体の「面」(整体)に対する訓練の効果は伝統的な丹田の「点」、周天の「線」の効果を絶対的にに上回り、「人天合一」と「道法自然」の伝統理論と完全に一致している。

五.拳を学ぶことは登山のようである。山頂に登る前は、「身在此山中」で、視野に限りがあり、登山者は近道を見つけるのが難しい。山頂に登った人だけが、どの道が最も便利かをはっきりと見ることができる。「明師」は、確固たる意志で拳学の山頂に登った人であり、学生に最も速く、最も正しい登山の道を指導することができる。

六.意拳を学ぶには、まず意拳理論の科学性を十分に理解し認識しなくてはならない。三日間は魚を捕り、二日間は網を干すようでは(訳注:三日坊主のこと)、意拳という「スイカ」を失い、他の「ゴマ」を拾いに行って、無価値なものを背負って帰ってくることになる。そうであれば、いつまでも意拳の門外に迷い続け、意拳の真髄を得ることはなく、意拳の恩恵を受けることもない。

七.「気足神全」、これは王薌齋先生が意拳の健身に対する深い洞察である。つまり、人の体の「気」が充足すると、精神が健康で安定し、精力が溢れる。「気」は中医学の用語で、現代の意味では「エネルギー」と理解できる。意拳を練習することは、エネルギー、つまり「気」を蓄積する過程である。人を打つことは力の範疇であり、人に発することは気の範疇であり、人を制することは神の範疇である。

八.拳を習い、功を練るには、「明師」、「大師」だけでは足りない。「師自然」、「師造化」であり、大自然、宇宙から拳の道理を理解する必要がある。例えば、海水が岸辺の岩に絶え間なく打ち寄せる様子は、勢いが荒々しく、能量が尽きることがない。拳を練るときには、大海が海岸を洗い流す感覚があり、この自然現象から拳理を探す必要がある。

九.林先生は次のように言われた。「練功はいくつかのものを選別する必要がある。異なる段階で異なるものを選ぶ」「全てを欲しがってはならず、精髄を残す。王薌齋先生は『立つ者は立つ、捨てる者は捨てる』と語っていた」。

十.「意念の訓練は、火加減と分寸の把握を求める」

十一.「悟道」とは、ある道理を理解することであり、方法ではない。

(四)

一.站樁時、自分を水中の一匹の魚と想像することができる。食物の心配をせず、外界からの干渉がなく、湖水の抱擁の中で自由に泳ぎ、水の柔らかさと甘さを楽しむ。樁功の養生は快適さを探し、愉快な過程を見つけることである。

二.樁功の間架は確かに重要であるが、更に重要なのは師が樁を調整した後の感覚を覚えておき、その感覚をできるだけ保持することである。「意感」を使って間架を導くのである。

三.推手の時は、腰部は松とし、力を用いてつっぱてはならない(=頂)。相手が攻めてくるのを恐れれば恐れるほど、力が入りすぎる。腰部を放松すると、相手は容易に攻めることができない。

四.拳を学ぶには、最初に拳理を学ばねばならず、具体的な招式ではない。理論を理解した上で技術方法を学ぶと、効率が倍増する。

五.養生樁を立つ時、自分が湖面に浮かぶ一枚の葉のように想像し、波紋に揺られながら、快適で、心地よく(=舒适)、楽しく過ごす。

六.推拉試力を行う際、遠くの木々を眼と両手の中心で引き寄せ、押し戻す(=推回)ような意念で行い、これを繰り返す。

七.養生と技撃では、異なる訓練方法を使用し、異なる路線を歩むため、効果も異なる。訓練が深まるにつれ、意拳の高級段階に到り、これら二つの道は一つに重なる。

八.「舒适得力」の中の「得力」とは、間架を充実させ続けることを意味し、「舒适」のために間架がゆるく崩れることがあってはならない。

九.試力は站樁の空間における拡張であり、二人の推手は二人の試力である。

十.意拳の動作形式は単純だが、内容は豊富で複雑であるため、見た目は簡単だが、実行は非常に難しい。端的に言えば、意拳は非常に単純でありながら、非常に難しい学問である。

十一.技撃の方法において、王薌齋は次のような意味の言葉を残している。「他の拳にあるものは意拳に必ずあり、他の拳にないものも意拳にはある。これが意拳の中心思想であり、意拳の命である!」。

十二.摩擦步を行う時、膝にはある程度の弧度を持たせるべきである。站樁のように、腿はわずかに曲げ、完全に伸ばしてはならない。完全に伸ばした状態では、歩法が硬くなり、実戦では動きが霊活でなくなる。

十三.摩擦步を行う時、頭部が体を引き(=引領)、足が地面に触れる時、麺棒を踏むように、慎重に探りながら下に踏み込む(=踩)必要がある。

(五)

一.意拳において、最も重要で基本的な樁法は混元樁と伏虎樁である。これら二つの樁法で多くの功夫を積むことで、成果を得ることができる。

二.最も重要な試力は扶按球試力と烏龍巻臂試力であり、技撃応用の中で最も自然で広く使われる。

三.站樁と試力は、動作が正しい場所に達することによってのみ、効果を生み出し、功力を強化できる。動作が正しい場所に達するとは、正確な感覚と姿態を見つけることを意味する。動作が正しい場所に達しなければ、訓練時間を完了することを目標としても、効果はわずかである。

四.意拳は技撃だけではなく、意拳の拳理は養生、益智、医療、体育、芸術など、生活と仕事のさまざまな分野に応用でき、巨大な効果をもたらすことができる。広い応用空間と展望があり、現代人はまだ十分に認識し開発していない! 薌老は「技撃は末技に過ぎない!」と言われた。

五.意拳の訓練を受けた選手は競技場で、小さいものが大きいものに勝ち、弱いものが強いものに勝ち、軽いものが重いものに勝つことができる。意拳は人体の自然力、本能力を開発し、現代の体育訓練は人体の筋肉繊維の収縮の機械力を訓練している。その理論基盤は異なり、この点で意拳は「反科学」のように見える! その理由は現代科学がまだそれを完全に研究していないからである!

六.意拳で人を撃つ際のエネルギーには、人体の生体電気のエネルギーや全身筋肉の収縮の力、あるいは他の本能力の作用があるかもしれない。これは意拳が研究すべき内容である。

七.意拳を学び始める最初の日から、この世を去るその日まで、站樁を行うべきである。站樁は拳学生命の支柱である。

八.推手は二人の試力であり、両方が実質的に中線の運動を行っている。推手の鍵は、相手の中線を探し出し、同時に相手に自分の中線を見つけられないようにすることである。

九.拳を学ぶ鍵は、師から先人の拳学の原則と原理を学ぶことであり、単に師の動作を模倣するのではない。師の拳の感覚を見つけ、できるだけ神を似せることを目指すべきであり、絶対に外形や貌似だけを模倣してはならない。

(六)

一.練功は「資本」を蓄えることが必要であり、「資本」が足りなければ、健身や技撃の目標には達成できない。「資本」は、站樁や試力などの手段によって得られ、いわゆる「資本」とは内功である。

二.練功は「気」を養い、「気」を充填する過程であり、「気」が十分になってこそ、打撃に耐え、相手を打撃する能力が身に付く。相手があなたを一度打っても、あなたは何ともないが、あなたが相手を一度打つと、相手は耐えられない。

三.「気」は実際に存在し、数千年来、古人の体験や論述は枚挙にいとまがない。現代の機器では測定できないが、感覚上は真実であり虚ではない。「気」が充分な状態で外力で打撃されても、皮膚には痛みがあるが、内蔵には影響がない。なぜなら「気」が皮膚の内外に保護層を形成しているからである。例えば、小が站樁状態に入った時、林先生は複数の学生に腹部を何度も力強く打たせたが、ゴム人間に打つような感じで、小は後で皮膚が痛いだけで、腹内に不快感はなかったと言った。打撃した学生は皮の球を打った感覚があった。小と打撃者の感覚は、「気」の存在による作用によるものである。

四.意拳は「気」を練ることを目標としないが、「気」は意拳の練習過程での成果である。

五.技を較べる過程では、誰が全面的に、徹底的に松できるかが、優位を占める。松の状況でこそ、人は霊活に自分自身を掌握し、「功力」と「本能力」を発揮できる。

六.混元樁を立つ時は、「抱三抱七」の方法を探る。先に「抱」をした後、外に「撑」を試みる。

七.矛盾樁を立つ時は、前手は前足のつま先を超えず、目は虎口を通して前方を見る。後手の指は前方を向き、「挑」の感覚を持つ。

八.いわゆる争力とは、二つの相反する力である。

九.硬さと弾力性を兼ね備えること、これが功夫である。

十.気の問題は常に中医学の最も根本的な問題であり、技撃や養生において気から離れることはできない。

十一.バスケットボールをする際は、特に小腕の内側の部分にリストバンドを着ける。王薌齋先生は一度手を挙げて言われた。「誰か私のこの部分を研究してみるか? 私はここが最も使いやすい!」。

十二.姚先生は言われた。「サンドバッグを打つ時の音は金属がぶつかるようなものでなければならない。プププという音はでは意味がない」。

十三.松は松緊転換の基礎であり、松である方が有利である。

十四.伝統文化は根を語る必要があるが、根を守ることに固執してはいけない。

(七)

一.林老師は次のように考えている。意拳を学ぶには、まず意拳理論の科学性を十分に理解し認識しなくてはならない。三日間は魚を捕り、二日間は網を干すようでは(訳注:三日坊主のこと)、意拳という「スイカ」を失い、他の「ゴマ」を拾いに行って、無価値なものを背負って帰ってくることになる。そうであれば、いつまでも意拳の門外に迷い続け、意拳の真髄を得ることはなく、意拳の恩恵を受けることもない。

二.林老師は言われた。「気足神全」、これは王薌齋先生が意拳の健身に対する深い洞察である。つまり、人の体の「気」が充足すると、精神が健康で安定し、精力が溢れる。「気」は中医学の用語で、現代の意味では「エネルギー」と理解できる。意拳を練習することは、エネルギー、つまり「気」を蓄積する過程である。

三.林老師は言われた。拳を習い、功を練るには、「明師」、「大師」だけでは足りない。「師自然」、「師造化」であり、大自然、宇宙から拳の道理を理解する必要がある。例えば、海水が岸辺の岩に絶え間なく打ち寄せる様子は、勢いが荒々しく、能量が尽きることがない。拳を練るときには、大海が海岸を洗い流す感覚があり、この自然現象から拳理を探す必要がある。

(八)

一.大功力樁(例えば伏虎樁)を立つ際は、正確な姿勢が必要であり、その後でその内涵を理解することができる。

二.降龍樁、伏虎樁は意拳の基本樁であり、養生と技撃に効果があり、人の陰陽二気を培養し、人を健康で平衡にする。

三.意拳の養生は単に体を強くし、病気を治すだけでなく、知に有益で、人の智慧を開拓し、人と宇宙との交流を可能にし、天人合一の境地に達することができる。

四.功夫は「功夫」から来る。私の理解では、最初の「功夫」は功力や成就を指し、二番目の「功夫」は時間と汗と思考を指す。

五.20-30分站樁すると、いらいらする現象が現れるかもしれない。35分すると、非常に不快で、痛みさえ感じることがある。この時点で多くの人が諦め、その日の練功は無駄になる。しかし、心を決めて続けると、快適で楽しい感覚が生まれ、それ以降の站樁は高い効率の状態に入り、1分間立つするごとに、1分間の功力と収穫がある。

六.姚先生は、練功で最も重要なのは基礎をしっかりと打ち固めることであり、欲張って急ぐべきではないと言われた。基本功がしっかりしていれば、高度な功法を学ぶのは非常に容易で、一目で理解できる!

七.意拳は内分泌系や免疫系を活性化し利用する効果があり、寿命を延ばし、知恵を開発することができる!