意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

月刊秘伝2018年4月号

"空手道"盧山初雄

印象に残った言葉

攻撃にも受けにも理というものがある。すべてがその理にかなっていなければいけない。理にかなえば私のように歳を取っても衰えず、かえって歳とともに円熟する(澤井健一

山岡鉄舟が語る”無敵“とは誰と戦っても負けないんじゃなくて、敵という概念を自分の心の中から無くしてしまうことだと思います。いわゆる絶対平和。強さの究極とは自分の中から不安を消し去ることでしょう。澤井先生は禅(站樁)を続けることで何も感じない、無念無想の境地に至るとおっしゃりました。この境地にいつかは至りたいと念願して稽古を続けてきましたが、最近ようやく、この道で間違いないという新たな確信を得たように感じているんです(盧山初雄

究極の到達点は同じです、入口が違うだけでね。中村先生は、徹底的に形から入り、形を掘り下げて考えて、最終的には無心になって使う。澤井先生は、最初から根をしっかりと張り巡らせれば末節は自然に出てくるということですよね。そしてそれは王向斎先生の教えとも同じです。王向斎先生も形から入って形を忘れ、無になった方ですから。入口は多少違っても到達点は同じなんです(盧山初雄

私が站樁にのめり込んだのも、王向斎先生がいった「気の力は非常に強く非常に速い」という言葉があったからです。これが中村先生の「一拳必殺」と「時速200〜300 キロのスピードを持つ手刀」に通じるものがあると思うからなんですよ(盧山初雄

そうしたら澤井先生は「キックボクシングをやっても、気持ちをしっかり持てば空手の技が衰えることはない。むしろそういう格闘技の技術を得るチャンスを、自分なりに稽古に活かせ」といわれたんです(盧山初雄

気を練る前に、まず”気を養う”ことが必要です。いわゆる『養気』です。この気を蓑うものこそ站樁(立禅)です(盧山初雄

(試力は)例えば、ただ両手を捏ねてみても意味のないことで、体の中に鉛を通すように、水飴をグワァッと練っていくみたいにやります。それも筋肉で力を込めるのではなくて、あくまでも気を重くする、もっともっと鋭くする、そういうイメージが必要なんです。イメージを抜きにしてやってみても何にも成果はないと思います(盧山初雄

当時、一週間に一度、先生と二人で朝の薄暗い中、明治神宮に行って……あれがもう楽しみで。当時は今と違って腰を低く構えて、踵も挙げて、これで15分。帰りのトイレでは脚がぷるぷる震えて(笑)、明らかに空手とは違う筋肉が使われている。鍛錬方法がまったく違うということは自分の体が分かっていますから(盧山初雄

(站樁を15分から始めて、最初に1 時間を達成した時には)当時は站樁のことも深くは知りませんでしたが、”ああ、これだけできるようになったんだな“という感慨がありましたね。それだけ自分が強くなっているという実感です(盧山初雄

ただ、澤井先生はそれを外力として発揮されていた。その衝撃は『気』というものを実感せざるを得なかった。私もそうだし、カレンバッチもそうだから、彼も澤井先生へ傾倒していったわけでしょう(盧山初雄

ここでいうエッセンスとは、威力でありスピード。それらを生み出す"瞬発力"とでもいったものです。そして、全身のバランス。それを支える軸のようなもの。その瞬発力をもっと増す練習が澤井先生の教えの中にあり、それまで学んだ空手の稽古体系には無いものだったんですね(盧山初雄

王向斎先生は”地球を持ち上げることができる“と言っていたと聞きましたが、澤井先生も”たまには、クマが来てもトラが来ても喰い殺してやるような、そういう気持ちになるんだ“と言っていました。私もいずれはそんな境地ヘ一度は行ってみたいと思っていました(盧山初雄

澤井先生のように質問したり、実際に手を交えさせていただいたということはありませんでしたが、王樹金先生は型を通じて”やっばり、この人は凄いな“と思いました。そこに居ない敵が空間に見える、三次元的な型(演武)なんですね。あの手の感じは今でも忘れないです(盧山初雄

はじめ孫立先生は『呼吸や内観は関係ない。イメージだけ』と言っていたので、やはりそうなのかと思っていたのです。それが一昨年の暮れ頃、『館長! 養気と練気。王向斎先生の本にも書いてある』って。”アンタ、いらないって言ったじゃないか"とは言いませんでしたけど(笑)、確かに孫先生がまとめた『王向斎伝』には小周天のことが書いてある。"ああ、やらなくちゃいけないな“と、それからまた試行錯誤しながら始めたんです(盧山初雄

孫先生は北京でこれ(呼吸法)を干永年先生に学んでいますが、長年、教えてはくれなかった(盧山初雄

澤井先生が『芽が出ない時はトコトン出ないが、ちょっとでも芽が出るとダァッと伸びる』とおっしゃっていましたが、私もここ数年で何か芽生えたのかもしれません(盧山初雄