意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

月刊秘伝2006年10月号

動きの核を求めて

  • 登場する先生
    • 天野敏
  • 内容
    • 安田登と天野敏対談

印象に残った言葉

(趣味のサーフィンについて)止まるというか、時間の流れ方が変わる。本当に密度の濃い時間。武術なんかでも組手なんかをしているときにそういう瞬間があるのと同じで、考えている暇はなくて、感じている暇しかない(天野敏)

結局禅には二つか三つの様相があるんだけど、認識をなくしちゃうという部分があるんですね。認識をなくすというのは、多分自分と他人との間にある垣根をなくしちゃうという。禅を組んでいるとポッとなって訳が分からなくなる。これは赤ちゃんが見た物を何でも口に入れてしまうのと同じで、他者と自分の区別がない未分化な状態。そういう状態というのは感性が外に向かって開かれている。中はないという感じじゃないかな?だから自分と他者は同じになってしまう。そういう状態を禅の中で感じることがあるんですよ(天野敏)

身体を弛めるとき、立つというのは人間の最低限の仕事だから立っていて、"良く立つ“と身体からノイズが無くなる。そうなると外に向けられる神経が、みんなよく開く。外に開かれる神経というのは味覚とか聴覚とか色々あるけど、そういうものを含めて観想するというような感じですね。中を虚にして外に向かって開く。だから目も閉じないし耳も聴いているし、それがあって初めて彼我の差がなくなる。それがあって初めて武術になるんだな(天野敏)

そうなったときに初めて武術的な神経の通り方、例えば夜道で虎と出合ったように禅を組む。そう思うとゾワゾワゾワッと本当に烏肌が立ってくる。神経もビリビリしてくる。それは身体が弛んでいてノイズがないから逆に神経が行き渡ってビリビリする。そういう状態をいくらでも自分の中に作り出す。中国拳法的に言えば”意"というんですけど、ある種の状態へ自分の身体を持って行ってしまう。肉体ではなく神経を高めるっていう感じ(天野敏)

でもやっぱり、自分の中でフッと考えるときに身の毛もよだつような、生理的なものもある程度コントロールというか、なっちゃう。そう感じられるようになったのはこの半年くらいで、「やっぱり変わっちゃうんだ」という感じ。普通そういう繋がり方というのはないですよね。トラウマのように嫌なことを再現して冷や汗が出るとかではなく、自分の想像の中だけで変化できるようになる(天野敏)

やっぱり禅をやっていて、サーフィンなんかもそうなんだけど自分の中心を感じてられるんだよな。中心を感じてられると、とっても楽で自分を感じられる。自分を確立できる。自分がここに在るという手触りを感じていられるんですよ。だからとっても安心していられる(天野敏)

それはもうやっていて辛い思いをするから楽しようというステップ、辛いから楽しようと自然に変わってくる。普通に立っていると辛いから「こうしよう」と徐々に徐々に変わってゆく(天野敏)

やっぱりね、僕らも先生から教わったこともあるし、形で教わったものもあるけど、やっぱり雰囲気ですよね。パッパッと先生がやるときの切り替わってしまう様。いままでニコニコ話していたのがパッと切り替わって裏返ってしまうような様(天野敏)

禅なんかでもこうやっていると足腰が強くなるというものではなくて、さっき言ったようにその瞬間、思った瞬間にゾワゾワッと体中に寒気が走る(天野敏)

ここで技を使おう、技術を使おうではなくて、行こうと思ったときにはそうなっている(天野敏)