意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

意念活動(『神意拳養生功』より)

意念活動は站樁功において非常に重要な内容の一つであり、その目的は精神を転移させ、意念を集中させ、入静に誘導し、快適な美感に達することができるようにすることである。そのため、站樁功における意念活動は、一般的な気功の意守丹田とは性質が全く異なり、身体内の丹田などの部位に意守することを主張せず、弁証的、霊活的で、適切な意念を運用して身体の舒適感が増すのであって、一ヶ所に固守するのではないので、いかなる副作用も生じない。

拳学上の意念活動では、よく「形を以て意を取り、意を以て形を象り、形は意に随って転じ、意は形より生じ、形松意緊、形簡意繁で、力は意より発する」などと言われる。これらはいずれも意念の来源と作用を説明しているのである。我々が功を練る最終目的は、舒適な美感を求め、病気を取り除き、体質を強化し、健康を維持することである。站樁功の各姿勢には、それぞれ適切な意念活動を組み合わせて、効果を上げるのを助けるべきである。站樁功の意念活動は、我々の生活の中で接する物事を假借、運用するもので、神経を安定させ、精神を広げ、入静に誘導し、肌肉を放松させ、病巣の除去を助け、運動量を調整するなどの作用がある。

站樁功の意念活動の範囲は非常に広いが、ここではいくつかの側面について説明する。

一、神経を安定させ、精神を広げるのを助ける。集中して意念を用いて、非常に広大で美しい大自然の中ににいると想像する。例えば、以下のようなものを適切に選んで運用することができる。

(1)自分が高い山の上に立って遠くを望み、海は広く空は果てしない。

(2)遠くの泉の水の音を絶え間なく聞き、心を沈静にする。

(3)静かに細かい雨の音を聞く。

(4)鳥の鳴き声を聞き、聞けば聞くほど遠くなっていく。

(5)自分が風がなく暖かい日差しの中、微風が吹く大地に立ち、とても心地よく感じる。

要するに、これらの想像を通じて、心を開放的にし、病気を忘れ、舒適な美感を求め、精神を転移させ、入静しやすくするのである。

二、肌肉の放松を助ける想像

(1)自分が平原の草原に横たわって休んでいるように。

(2)小舟に立ち、意に任せて漂い、両脚で平衡を探り、ゆらゆらと心地よい。

(3)浴槽で入浴し、水の中に横たわって休んでいるようで、非常に心地よい。

三.病気を取り除くための想像

例えば、高血圧や眩暈がする患者は、功を練る時に全身の血液を下に引く意念活動を組み合わせることができる。例えば、自分がシャワーを浴びているように想像し、温水で自分を洗い、頭から脚まで流し、水は上から下へ流れ、足の裏まで流れ、絶え間なく洗い流し、徐々に忘れていくと、血液の下流を助け、頭部に軽快感があり、全身もとても軽快になる。

四.関節の挺抜、筋肉の舒展

功を練る時、頭は頂いているようで頂いていないように想像し、全身を領導し、首は寄りかかっている(=靠)ようで寄りかかっていないように、手は支えているよう(=托)で支えていないように、腕は抱いているようで抱いていないように、肘は支えている(=撑)ようで支えていないように、腰は挟んでいる(=夹)ようで挟んでいないようである。全て似ているようで似ていない微妙な中で体験しなければならない。つまり、矛盾を統一し、絶対的な力量にしてはならず、また、両足は安定し、足の指は僅かに地面を掴み、足の裏は空にかかり、木が根を生やすような意念活動に注意しなければならない。そうすれば、全身の関節が挺抜支撑し、筋肉は舒展し、胸部が開き、内臓が温養されて松緊の平衡の取れた状態になり、特に心地よくなる。立っている時は、自分が松の木のようだと想像し、永遠に青々とし、寒風や暴風雨を恐れず、山の上に立つ。先生はよく「座るときは鐘のように、立つときは松のように、歩くときは流水のように、動くときは風雲のようで、また風の中の旗、波の中の魚のようである。すべてが仮借の良師である」と言われた。

五.全身均整平衡

功を練る時に少し基礎ができたら、意念活動を加えることができる。例えば、撑抱浮托式をする時、両手の間には断たれても糸がつながっているような意があり、左右に関係があるが、実際に出してはならない。また、球を支え(=托)、手は水の中に浮かんでいるように、完全に意念を使って行わなければならない。提抓式をする時は、両手と地心に関係があると想像し、力を入れ過ぎてはいけない。梢節に松緊虚実の意を利用し、上下に呼応させ、二争力を利用し、上下、内外前後、左右が関連し、一呼百応するように注意しなければならない。このようにして長く行えば、力が一つの完整体になることができる。初心者にとっては難しいことであり、身体が健康で精神が充実した後でなければ練習できないので、ここでは詳しく紹介しない。

要するに、站樁功の意念活動は非常に重要な問題であり、適切に組み合わせれば、精神を集中させ、神経を安定させる良い作用があるだけでなく、筋肉の鍛錬とも密接な関係がある。練習者は細心の注意を払って体験し、柔軟に運用し、規則に固執したり、作り込んだりしてはならない。全体の舒適さと自然さを基準とし、一つか二つを選んで使えばよく、徐々に忘れていき、最後には半睡眠の快適な自然な状態に達するか、あるいは忘我した方がよい。

以上のことがすべて体験でき、あるいは身体が完全に健康を取り戻した時、もし拳学と各種の人体力学に興味を持って研究したり、動静、虚実、松緊の組み合わせを深く探求したりする時は、さらに精力が充実し、意念が真実でなければならず、そうしてこそ良い効果を得ることができるが、実際にできるかどうかは個人の聡明さや意志力や、必要かどうかによる。そのため、先生はよく「仮借は無窮にして、神意は真である」と言われた。これは拳学において技撃の一面でもあるが、もし技撃を論じずに、これを一種の力学の知識として研究するならば、これもまた一種の芸術的な養生と言えるだろう。そのため、古人は養生と技撃の二つの方法を一つのものと見なし、分けることができないとしたのである。古人は「拳学の理は精に至り、運用は虚霊にあり、鍛錬は理趣を尋ね、養生に重きを置き、霊機は内より変じ、力は静処より聴き、身の動きは猿の如く捷く、歩みは猫の如く軽い。忘れず助長せず、久しくすれば自ずと峰に登る」と言われた。

李見宇『神意拳養生功』陳湘記図書有限公司より