意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

韓星垣先生談拳学要義

(本文韓星垣先生生の録音を整理したものである)

私の祖先は河北省河间の人で、1915年旧暦9月14日に南京で生まれ、3歳の時に父親の韓友三に連れられて北京市に定住した。私の父親は天津形意八卦の大師張占魁老先生の弟子だったので、私は幼い頃から父に従って形意拳を学んだ。父親が仕事で外出することになり、また形意拳の老師王占恒先生の門下で学び続けることになり、しっかりとした形意拳の基礎を築いた。1931年、私が16歳の時に兄の韓星橋と一緒に王薌齋老先生の門下に入り、1946年に師を離れるまでの15年間、薌齋老師から離れず、老師に可愛がられ、老師が創立した意拳拳学を伝授され、私は一生の恩恵を受けた。

我々が練習しているこの拳について言えば、初学者の方が少し良いかもしれない。年齢的には成熟した人の方が少し良いかもしれない。若い人が学ぶなら、14、5歳から始めるべきで、社会に対する認識が少しなければならない。なぜなら、この拳を練習するのは、一手、一招、一式ではないからだ。一つは、主に力学的なことを話すからだ。二つ目の理由は、私は各家各門の功夫を練ることを批判しないが、我々のこの拳から言えば、他の拳を多く練習していると、我々のこの拳を練習するのは少し難しくなる。なぜ難しいのか? なぜなら、以前練習したことによって、ある種の概念が存在しているからだ。一挙手一投足に、あなたのこれらの習慣が出てくる。難しいけれども、頭の中にこの概念があるなら、過去を忘れて、新たに始めるようにすれば、学んだことのない人と同じように進歩できる。しかし、両方の船に足をかけて、これも手放さず、あれも手放さなければ、進歩は遅くなる。これは確かだ。私たち小さい頃は白い布のようなもので、何かに近づくたびに痕跡が染み付いたようになり、習慣が形成された後、この痕跡を除去するのは非常に難しい。なぜなら、あなたは先入観を持っているからである。

この拳を練習する原則は、他の拳とは異なり、精神的な意念を必ず放松しなければならない。放松とは何か? それは、他の考えがないことだ。站樁をしている時、站樁の原則は自分自身の平衡を控制し、中心を理解し、平衡の控制を理解し、間架の配備と角度を理解することである。そうすれば、あなたは非常に早く進歩するだろう。いわゆる自然から出るということは、絶対的でないということだ。精神的に放松し、神経的に放松すれば、肌肉も放松し、間架にはすでに力が備わっている。もし手が下にあれば、持ち上げた時にはすでに力があり、力がなければ持ち上げることはできない。つまり、あなたの一つ一つの動作で仮借をする。あなたが指で何かを支えようとしている時、仮借の力量がなければ手から落ちてしまう。仮借の力量はこのようなものだ。間架、角度、面積と組み合わせれば、楽になる。

站樁について、站樁の原則は、一人一人の身長や体型が異なるが、脚と肩が一直線になる。つまり、角度、脚の位置は、内側に行きすぎず、外側に開いたりせず、一つの直線になる。

重心は脚の先にも、かかとにもなく、脚全体が平になっている。脚は実で地を踏む。体は前に傾いたり、後ろに傾いたりせず、左に斜めになったり、右にもたれたりせず、挺抜した体形になる。胸を張ったり、胸を含んではならない。松となった下に落ちる時、胯は必ず放松しなければならない。胯が放松すれば、膝も松になり、膝と脚の先が一直線になる。膝は脚の先に対して、ちょうど三角形になる。この位置は前に傾いてはならない。前に傾くと足の先に力が入り、後ろに傾くとかかとに力が入り、安定して立てなくなる。だから、脚下は必ず平の力量でなければならない。

胯を放松させれば、膝は自然と曲がり、屈に似て屈に非ず、伸に似て伸に非ずである。このように立っていれば心地よい。胯から上は挺抜している。

頭は必ず正直でなければならない。目は平視しなければならない。なぜ平視しなければならないのか? 目を前に向けて平視すれば、うつむいたり、あおむけになったりしない。平視すれば頭は正になる。歯を合わせ、舌を上あごに付ける。呼吸は鼻で行うが、呼吸には重点を置かない。なぜなら、私たち人間は空気の中で生きているのだから、魚が水の中で生きているのと同じだ。これは全て自然なことだ。いわゆる一呼一吸、一吐一納、気下丹田などということに重点を置く必要はない。これは硬直的で不自然なものだ。自然に戻らなければならない。

いわゆる放松とは、間架を作った後、角度を作り、手を持ち上げると、力量は完全に指先で導かれ、手首と肩が一直線になる。この肘は下に向かうが、下に向かっても直線ではない。直角三角形ではなく、45度の鈍角三角形で、肩から指先まで180度になる。左に一つ、右に一つ、両側で360度の円を構成する。まるで円球を抱えているようである。抱えているだけでは足りず、立体的である必要があり、平面的ではならない。肩を放松させると、肘に引っ張られているようだ。肘に肩を引っ張られ、指に肘を引っ張られる。このようにしても平面的で、一方向的にはまだ直線的だ。手と前腕は少し外向きにねじらなければならない。いわゆる「兜抱開合」の四文字だ。兜は、何かを持っているようなもので、抱くという意味があり、開合の意味もあるが、形にしてはならない。兜抱開合である。

体の中で最も重要なのは胸部である。だから先ほど、前に傾いてはならず、後ろに傾いてもならず、胸を張ってはならず、胸を含んでもならないと言った。胸を張ると気が上に浮いてしまい、下に力が入らなくなる。松でなければならない。松とは何か?  胸を含むのではなく、背中が弓のようになる。広背筋、肩甲骨のこの部分が円形になれば、胸は自然と楽になり、息苦しくなくなり、呼吸は完全に自然になる。初めて立つ時は動いてはならない。ある程度の時間が経ったら、動いても良い。体中が楽でないと感じたら、肩を動かしたり、指を動かしたりして、快適になるようにする。まるで空気の中で遊んでいるようなものである。他の考えはなく、心も精神も空気の中で休んでいる。站樁の良いところは、内側から発揮されることで、新陳代謝のような機能がある。心臓のようなものだ。心臓は体の全ての枢軸で、血液循環を制御している。いわゆる気血である。つまり、気血の循環が良くなる。站樁の良いところは、体の具合の悪いところを正常に戻すことができることで、それは整体運動である。一手一脚の運動ではなく、一度動けば周身上下が動き、渾円体になる。

この原理がわかれば、求力の面で、今あなたの体は良くなり、あなたが多少体得し、多少の代価を払えば、それだけのものが得られる。求力は自分で体得しなければならない。体が良くなった後、体に力があると感じたら、抽象的なものを仮借する。前に人がいると感じたら、触れるとまるで感電したように跳ね返る。力を求める時は整体的で、前も後ろも左も右もない。渾円体であり、体のどの部分も争わないところはない。まるで砂袋が空中に吊るされているようなもので、下も左も右も前も後ろも、ロープで引っ張られている。前に推したいと思っても、後ろから引っ張られている。後ろに行きたいと思っても、前から引っ張られている。左に行きたいと思っても、右から引っ張られる。右に行きたいと思っても、左から引っ張られる。全体が一つの円で、少しでも動こうとしても動けない。争力は整体的で、一方的なものではない。仮借をして、どの方向に行きたいと思っても、反対方向の力があなたと対抗する。いわゆる自分の中心を控制するということだ。自分の中心を控制できて、初めて相手の中心を失わせることができる。人は中心を離れると倒れてしまう。

自分の中心を控制できなければ、どうやって相手の中心を控制できるのか? あなたが渾円体になった後、相手があなたに触れた時、あなたは一方的な力ではなく、整体的な力である。相手と接触した後、相手は片手だが、あなたは整体だ。手は腿ほど力がなく、腿は整体ほど力がない。相手があなたに触れるのは片手片腿の力だが、私たちは整体で対抗する。この力はまだ相対的ではなく、絶対的だ。また、私たちがこの力を求めるには角度がある。角度があれば、螺旋やてこがあり、慣性の作用がある。どこに触れてもどこも動かず、発力することができる。

肩肘手には「兜抱開合」の四文字、胯膝脚には「提夾扒縮趟崩拧裹」の八文字、合わせて十二文字がある。この十二文字を一つの字にしなければならない。これが筋骨を鍛えて力を求める方法である。

提:股を上げて(=提裆)頂を吊るす。股を上げる時、少し頂を吊るす意があれば、自然と上がる。

夾:両腿を少し合わせる意がある。この股を上げた時、自然と夹力が生まれる。

扒:脚は地面を掴んでいるようで、一提一夹すれば、足は根を張ったようになり、引き抜くことができない。

縮:伸縮である。上げれば縮み、伸縮性がある。

趟:歩く時、水の中を歩くような意思がなければならない。趟は直で進むのではない。自然と少し螺旋の意思がある。

崩:発力する時、山が崩れて揺れるようである。

拧:転動する時、腿だけを捻ってはいけない。周身が整ってで転動する。

裹:包裹というのは、腰を訓練することである。腰が動かせば、腿を動かさなくても膝が下がる。来回に包裹がある。肌肉は変化しなければならない。手は抱の力量と発の力量がなければならない。ずっと抱えているわけにはいかず、。発しなければならない。

開合:伸縮である。体は整体的で、一度動けば全身の十二の字が一つになる。一動すれば全てがある、渾円体である。

求力には、仮借、抽象がなければならない。求力は絹のようであり、綿花を引き裂くようなものだ。力を入れて絹を引っ張ると切れてしまうが、切ってはならない。いわゆる抽絲拉綿であり、この力を求めるのはゆっくりと行う。慢は快より優れ、緩は急に勝る。動きは抽絲拉綿のように、仮借抽象をする。いわゆる大動は小動に及ばず、小動は不動に及ばない。不動こそが真の動である。争わないところはない力量があり、これを理解すれば得ることができる。この手は軽松で、相手が触れれば、すぐに反応できる。これがその意味だ。一つ一つの動作は自分で心地よいと感じなければならない。この心地よさは力を求める時の整体の力量である。この大臂の間架は、いわゆる間架不破体、力不出尖でなければならない。破体というのは力が一方に偏ってしまうことで、出尖というのは手を出してしまうことである。出してしまったら、また戻さなければならない。発力する時、争わないところはなく、非常に軽松で、初めて相手を控制できる。站樁は自分を控制することだ。自分を控制できれば、相手を控制できるが、これがわからなければ力の運用も発力もわからない。

いわゆる意は指の先にあり、あなたの意はすべて前にある。技撃の時は硬直的ではない。私が相手を控制するのである。相手の力量がどれだけ大きくても、触れれば相手を控制しなければならない。角力のように力で対抗してはならない。実戦では、進んでも打ち、退いても打つ。