意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

フルコンタクトKARATE2006年5月号

島田道男の太気拳

  • 登場する先生
    • 島田道男
  • 内容

印象に残った言葉

突きを出したら体が伸びてしまうこともあるわけです。それよりも体の中で突きの力と形を作っておいて、歩法によって体全部で動いて当てれば、いつでもどの方向からでも、突きや蹴りとは違った形でも打てます(島田道男)

まして歩法ができている先生は少ないと思います。もしいたら「一回やって見せてください」と言いたいです。二人を同時に相手しているところを見せてくれれば、すぐわかります。歩法ができていなかったら瞬間に二人以上を相手することはできません(島田道男)

押す力と引く力の両方があって初めて突きの力があるんです。相手に向かって打っている時でも、相手へ向かう力と自分の方へ向かう、止める力の両方があって打っている、という感覚で考えるんです。だから打つ方向へ向かう力を出すことだけしか考えないような練習はしていないんです。出した手は押されることによって止まっている、外側にはこれ以上開かない、という感覚でその動きを体の中で行いながら立禅して、力の調和を取れるようにしているんです。だから、いつでも中から目標に向かってカーン! と出すことができるわけです(島田道男)

一部だけを固くガードしていても、こっちは常に空いた所にどんどん打っていけばいいんだから。空間を持たなければ、防御し切れるものじゃない。それに実際は後ろにも横にも回れるわけだから、固まってしまうとどうにも対応できない。「力を入れる」ということは逆に「動かない」ということだから(島田道男)

我々の武術には「受け」そのものという独立した概念が無いと言っても良い。とにかく、受けないで殺してしまうことを身につけるんだ。そうすることによって、結局、相手の体全体を崩していく。「受けている」という発想ではない。つまり突きや蹴りを受けた瞬間、同時に攻撃が行われる。受けて止まっていても別に構わない。ただ、その止まっている体勢は、自分から攻撃できる状態なのか、ということが問題だ(島田道男)

相手の攻撃に対して、自分の体が勝手に反応するんだ。そのために、まず立禅で自分の空間をコントロールする練習をする。生理的に「自分の力がある」とか「自分の力が無くなる」ということを立禅でちゃんと学ぶんだ。自分の力の出所、関節の力とかそういうことを、感触としてわかるように練習する(島田道男)

太気拳では、二人で組になって、お互い空間を守ったり潰し合ったりする練習として、組手以外に「推手」というものがある。でもこれは「相手の動きに対して」という受動的なものではなく、自分の空間をどこまで守って、相手を制御できるのか、という能動的な動きを身につけることを重視している。それが本当の推手だ(島田道男)

タイミングを取っているのではない。反応の動きは相手の力加減の問題だ。緊張して固くなったり、必要以上に開いたりしているかを見て、相手の体がちゃんとコントロールされている状態か、コントロールできていない状態かというのを察知しなければならないんだ。見るべき所は、力の強弱、意識の向き、手足の伸縮などだ(島田道男)

相手の空間がどこまであるか、ということ。その前提として空間があって、中心線がある。空間のないヤツの中心線なんていつでも狙えるわけだから。空間があったら中心を狙えないわけでしょう。相手の中心線を狙う、一方で自分の中心を守るのは当たり前のこと。でも、一方では右斜め前から見たら、中心線が守れていなかったりする。常に一方向からの攻めから守っているわけではないでしょう。少し外して、狙わせて、その中から攻めてきた相手に反撃する形を作るわけだ。だから中心線うんぬんではなく、自分の空間をどう支配するか、だ(島田道男)