意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

『姚老意拳講話録音資料』(14)

先ほど述べた意念の練習は、木を抱くことを想像するものでしたが、実際にはもう一つ重要な要素が含まれています。それは「争力」、つまり相反する力量のことです。もし木を抱くように想像する際に、私が皆さんに示したような大きな動きをすると、この争力を感じるのは難しくなります。もし動きを小さくして、前後に動かすときも、外に開くときも同じように行うと、この二つの部分が連携する必要があります。外に引っ張り、内に合わせる。下から上へ引き抜く時は、ちょうど頭上に達したら下に行きます。実際にこれは全て拳術における争力の構築に関連しています。これが意拳における技撃の核心的な部分であり、争力の訓練です。

なぜ私が最初に渾円力について説明するかというと、渾円力は練習が難しいからです。技撃の訓練を受ける人、技撃の基本功を鍛える人には、まず渾円力に対する包括的な理解を持つことを求めます。少し模索しながらでも良いです。次に第二段階に進むと、争力を明確に模索するように指示します。言い換えれば、争力の訓練方法を明確に示し、渾円力を分解します。この方が簡単ですが、なぜ簡単な部分を後にするのかというと、最初から全体的な理解を持ってもらいたいからです。将来的には、争力と渾円力を一体化させることが、意拳の発展と進歩の方向です。

意拳自体、つまり技撃と健身の関係についてですが、例えばここに立って、水の中に浮かんでいるような感覚を想像するとします。身体には浮遊感があり、さらに進んで練習するなら、水池の中に立っていると想像します。水は静止しておらず動蕩しています。水は前から来るかもしれないし、後ろから来るかもしれないし、左から来るかもしれないし、右から来るかもしれません。私たちは水の中に置かれ、水面が下がる中で立っています。この時、水が前から来るとき、私たちは水を後ろに推し戻すようにするか、または水に推されながら避けるようにします。しかし、私たちは石のように固定されているわけではなく、流れに逆らっても撃退されることはありません。そのため、この時意念を用います。健身の場合も同様で、周りにはわずかな力量で水が自分に当たると想像し、後ろから来る水の力で前からの力を推し返したり、後ろから来る水を前の水の阻力で後ろに流したりします。左右、上下についても同じです。

技撃の練習では、この点を明確にします。精神意念、すなわち假借を通じて、空気の阻力を模索し、私たちが普段感じない力を強化します。私たちは空気の中で生活しているため、通常はその阻力を感じませんが、意念を通じて、空気の力量、つまりここで想像する木のように、実際に強化されると考えます。もし意念がなければ、ただ単に揺れているだけです。しかし、もし木が非常に太くて強力だとすれば、精神的な意念を強化する必要があります。実際にそんな木があれば、手は簡単には推し出せず、引き戻すのも難しく、分けるのも難しく、合わせるのも難しいでしょう。阻力は内部にだけでなく外部にもあり、私を包み込んでいます。特に前後にある時、ただ抱きしめるだけではなく、身体の後ろにも抵抗があるかどうかを注意する必要があります。足の裏や下腿にも阻力があるかどうか、注意が必要です。意拳では「上下頭頂に糸が結ばれているように(=上下頭頂如線系)」という言葉があり、まるで頭の上に糸がつながれているかのように、膝下は木で支えられているかのように感じます。例えば私の脚がこの場所にあるとして、こちらに棒があり、こちらにも棒があり、それらが支えています。そのため、この木を揺らす時、どこにも力があります。したがって、この假借を利用して技撃の渾円力を摸索するのです。これは練習を始める時に最も重要なことであり、これらを摸索することが最も重要です。

渾円力は、上下、前後、左右がすべて平衡した力量です。力量を獲得した後に、この樁を立つときにも、この姿勢を作ります。前後、左右、上下に動くかもしれませんが、力が備わった後は、具体的な形を作ることは求められません。ぼんやりとした感じで、どこにでもそのような意があるように感じます。これは、書道をするようなものです。初めて楷書を書く時は、横は平らで縦はまっすぐで、角がはっきりしています。しかし、行書や草書を書くときは、大胆な筆致で、その鋭さがなくなります。実際にはその鋭さは内に秘められており、実際には存在します。なければどうやって使うことができるでしょうか。

渾円力の「渾」という字は水を意味する部首と「軍」という字から来ています。渾円は、文字通りの円や楕円ではなく、一体の意味があります。

意念を用いることを考えると、王薌齋先生は「意即力也」と言われました。意は力であり、学習時間が短い人には理解しにくいかもしれませんので、再度繰り返しますが、意を用いることは力を用いることです。これは明確です。最初に練習を始める時に意を用いて力を用いないと言いました。この時、このような動作をするけれども、ある種の力量を感じることを想像してください。ですから意があれば力があるのですが、より大きな力量を用いることは求められていません。より大きな力量を持ちいると、それは硬直した力になります。ですから、少しの力量で十分であり、より大きな力量を用いる必要はありません。将来、試力を行う時も、発力を行う時も、意念をその方向に向ければ、力量はすぐに発揮されます。意と力が区別されないのは高度な段階であり、、どんな動作でも、特に意を用いなくても発力できるようになります。

私たちは普段の健身を行う同志たちと試力について話しましたが、実際これは技撃にも関連付けられます。例えば、身体の水をはらうような動作をすると、身体がとても快適に感じます。手の上のわずかな阻力から、身体全体が水中にあるような感覚に発展し、身体も水を揺らします。実際にこれを技撃の訓練に応用すると、この概念が少し変わります。水をはらう動作をするとき、その水の阻力は必ずしも一方的ではありません。常にそうするのは健身であり、周身を放松して気楽に行います。しかし、技撃を練習する場合、水をはらうときに非常に大きな阻力を感じ、力が必要になると想像します。しかし、実際に力を使わないことが重要です。この阻力は大きいかもしれませんが、小さくすることも、大きくも小さくもないことも可能です。これを意識の下で摸索します。将来的に技撃を使う場合、もちろん技撃では力と力の対比、力の平衡、力の対偶が重要になります。このような発力を行うとき、手を横に動かすと、その力量は発揮されます。旋回させると、反対側にも力が発揮されます。

このような力量は、放松した状態で訓練されるものです。力を用いると、力量が鈍くなりすぎて、必要な時に発揮できなくなります。なぜかというと、身体が霊活でなくなるからです。ですから、初めは身体を霊活にし、意念を用いて関節を霊活にし、皮膚の感覚や力の霊敏さを感じます。そのため「意即力也」と言われるのです。これは最後の段階で意と力が区別されない状態です。拳術において、実際に自己防衛や、予期せぬ攻撃や犯罪者に対処する時には、意を用いて力を使いますか? そんなことはありません。それは意と力が区別されない状態です。

松緊は精神的にも必要です。先ほど劉普雷同志が目の訓練における松緊について話していましたが、これは技撃の訓練であると同時に、養生の訓練にも必要です。目の訓練もその一例です。精神的な松緊と身体の松緊を目を使って統一することができます。例えば私がここに立って、前の電気工場にある建物や木を見ます。練習を始めたとき、私はそれらを見ていますが、同時に見ていないようなぼんやりとした状態です。1、2分待ってから、目の筋肉を少し収縮させて、はっきりと見ようとします。はっきり見えたら、また緩めます。次の段階では、再び試してみます。この練習では、遠くから近くに焦点を移すこともできます。近くの場所を見たり、庭や家の中から外を見たりします。木々や緑色は目に良い影響を与えます。

近くの木の葉を見るとき、緑の茂みが目に飛び込んできますが、その形はまだ注目せず、少しの間、集中してはっきりと見るようにします。はっきり見えたら、また緩めます。この練習を繰り返すことで、見ることと見ないことの違いを体感し、皮膚にも感覚が現れます。まるで皮膚の松緊の感覚が、目で見ることと一致しているかのように感じられます。さらに練習を進めると、見るときと緩めるときに、目に力があるかのように感じられます。全身の松緊が目と精神的な支配を受け、一致して動作するようになります。つまり、松緊には多くの感覚があり、緩めている時間が多く、緊張する時間は少なくあるべきです。先ほど私が技撃樁の例を一つだけ挙げたのは、これが技撃樁での主要な点の一つだからです。将来的には、他にも多くのことがあります。