意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

意念的運用与効応(『大成拳実用学説』より)

(一)意念運用有階段性

王老先生が意拳の名を取ったのは、後学の者にこの拳は「意」の拳中での作用に注意するよう提示するためであり、必然的に時と場所を問わず意念を離れることはできない、というのが一般の人の大成拳に対する理解である。実際はそうではなく、大成拳の習練過程において、始めから終わりまで意念を運用するわけではなく、意念の運用には段階性がある。例えば、基礎功の站樁の練習では、意念は用いない。目を閉じて站樁しても開眼で站樁しても、必ず静かにし、「凝神、定意」しなければ、功力を練り出すことはできない。特に王薌齋先生の言う「先天本能の活力(また「自然力」とも言う)」を練り出したいのであれば、なおさら凝神を用いて功を練る必要がある。王薌齋先生は『大成拳論』の試力の章で、「余の四十余年の経験に基づき、各種の力量はすべて渾元から拡大し、空洞無我から生じてくるものだと感じる」と述べている。もし站樁時に凝神するほど静かでなく、「空洞無我」に達することができなければ、自分の存在さえも忘れることができるだろうか。そのため、常人にはない非常に強い功力を持ちたいのなら、基礎功の段階では意念を運用せず、さらに随時雑念を取り除き、「定意、凝神」を保たなければならない。これが基礎功段階の習練の主要な原則である。

ある人は雑念を排除する方法を、練功中に有用で、站樁に役立つ意念活動だと考えている。例えば、ある人は站樁時、常に脚下に小さな球を踏んでいて、小さな球を前に転がすと足がそれに従って前に転がり、小さな球を後ろに転がすと足が球に従ってすぐ後ろに動く、と想像する。また、五指の間に柔らかいものを挟んでいるように想像したり、綿の袋の上に立っているかのように柔らかく心地よく、寂しくなく、ある程度の站樁時間を延長できる、という人もいる。しかし、このようにして基礎功を練習するのは時間の無駄であり、功力の練成に影響を与えてしまうことを知らないのである。脚下の小さな球があり、五指の間に柔らかいものを挟み、綿の袋の上に立つように脚下を柔らかくし、全身がゆったりと揺れるように感じるなど、これらはすべて初めて站樁を練習する際に設けられた雑念を取り除く方法であり、習拳中に応用する意念活動ではなく、ましてや実戦時に使える意念活動ではない。初めて功を学ぶ時は、雑念が出てくるのは避けられないが、雑念が出てきたら、綿の袋を踏む、手の指で柔らかいものを挟むなどの方法で雑念を取り除くのである。練習して站樁ができるようになったら、遠くを見ながら「見ているようで見ていない」状態で凝神することができ、その後はどんな方法も必要なくなり、自分でも雑念を取り除く方法を再び用いると逆に凝神を妨げていることがわかるようになる。

先に述べたように、鎮静と凝神は基礎功を練習するこの段階の主要な原則である。拳の練習で鎮静と凝神ができれば、比較的速やかにかなり強い力を練り出すことができる。もし凝神できなければ、練功の年月がどれほど長くても、力は充足しにくい。もし病気を治療するために站樁功を練習するのであれば、なおさら目を閉じて凝神する必要がある。

(二)意念在習拳中的運用

意念は習拳の試力の開始時から運用しなければならない。試力の開始時から、常に細心の注意と忍耐強さをもって、いかに自身の力と宇宙の空気とを呼応させ、力を拡大するかを体得しなければならない。試力によって力を自在に発揮できるようになって、この功夫がようやく完成したと言える。ここで述べているのは大原則である。試力は大成拳の中で最も重要な一つの功夫であり、力は必ず試練を経なければならない。身体の功力がいくら深くても、もし試力によって外に導引しなければ、実戦で爆発力を使おうとしても、爆発力を発することは不可能である。そのため、薌老が大成拳を創始して以来80余年、大成拳を習練する者は20数万人に上るが、未だ一人として薌老のように脆、利落、軽巧に、ただ勝つだけで人を傷つけないようにできる者はいない。薌老のようにできない理由は何か。それは站樁と試力というこの二つの原則を軽視しているからである。例えば、站樁養生功を練習する人々は、間違いなく彼らの手や身体の功力は、現在の拳を習う人々よりはるかに大きいと言えるが、しかし彼らは爆発力を発することができない。その理由は、試力の鍛錬、すなわち意を用いて大気層の力と自身の力とをいかに融合させ、いかに外に導引するかなどを指揮することを経ていないからであり、この段階の功力の訓練が欠けているため、力を突出させることができないのである。

大成拳で運用する意念は、大部分が「霊感意」を用いており、「神会」と呼ぶこともできる。実戦時に用いるのは、ほとんどが霊感反応動作であり、一触即発である。薌老の用いる「力」は、大半が霊感意の「弹簧(ばね)力」である。例えば、実戦で人を打つ時、一点の勇猛な武士の姿勢もなく、笑顔を湛え、全身軽松である。少しも力を用いたり意を用いたりする様子を見せずに相手の前に立つが、しかし相手の動静に全神を貫注し、機会を伺っている。相手が動けばすぐさま動き、意のあるところ手が至り、爆発力がそれに随って出る。これこそ薌老の言う「無法即法、法在無念」である。実際は無念ではなく、一種の潜在意識に類似しているが、しかし潜在意識ではない。我々が長年練功で運用してきた体得によれば、それは「霊感意」であり、通俗的に言えば「霊巧意」と呼ぶことができる。例えば、我が国の射撃の名手王義夫は、彼の視力はわずか0.01である(筆者は視神経萎縮に罹患したことがあり、視力も0.01で、0.01の視力がもたらす不便を身をもって体験したことがある)。的を射るどころか、1メートル以内にある物でさえ、はっきりとは見えない。しかし王義夫はオリンピックで優勝し、金メダルを獲得した。彼はどのようにしてこれほど正確に射るのだろうか。記者が彼にインタビューした時も、この質問を驚きをもって投げかけた。「0.01の視力でどうやって的の中心を射るのか」と。王義夫は、自分は目で的を見て射撃しているのではなく、完全に「感覚」に頼って射っていると言った。「感覚」さえあれば、目で見る必要はないのだと。もし身体に接触するものであれば、感覚だけでそれが何であるか、あるいはどういうことであるかを体得することができる。しかし、もし身体に接触せず、表在知覚神経にも触れないのであれば、確かに鋭敏な感覚に頼らなければならない。このような鋭敏な感応反応動作は、何に頼っているのだろうか。完全に頼りにしているのは鋭敏な「神会」であり、これこそがその外界の物体との距離を意識する「深度知覚」なのである。動物生理学者なら誰でも知っているように、動物はみな外界の様々な刺激(身体に接触するものも、接触しないものも)に対して、鋭敏な感応特性を持っている。大成拳で強調する「足や手を挙げればすなわち法であり、法は無念の中にある」とは、まさに習練者にこの鋭敏な感応特性を練り出させようとするものである。そのため、私は鋭敏な意念反応動作を「霊感意」と呼んでいる。

勁と力は、大成拳の運用において、上手く使う者は王薌齋先生と同様に、実戦時に擰、纏、滾の打などを用いる必要がなく、ただ一度接触する(手を一振りする)だけで、力がすぐさま発せられ、戦いがすぐさま終わる。大成拳のこの爆発力の一撃は、中国武林の名だたる拳師が脱帽するだけでなく、王芗斎先生と手合わせしたことのある外国の有名な格闘家もみな称賛し、敬服している。前に述べたように、先生が上海にいた早年(1929年)、上海のYMCAの主任コーチは世界ライト級ボクシングチャンピオンで、ハンガリー人のボクサー、名をイングという者であった。彼は中国を傲慢に見下し、中国武術に実用価値はなく、拳師はみな一撃に堪えられないと豪語していた。王薌齋先生はそれを聞いて訪問に赴いた。イングは先生の体格が雄偉でもなく、武士の気概もないのを見て、大して意に介さなかった。しかし、ほんの一瞬お互いが接触しただけで、イングはすでに丈外に打ち出され、仰向けに地面に倒れていた。後にイングはロンドンの『タイムズ』紙に発表した『私の知る中国拳術』という一文の中で、彼が王薌齋の手に敗れたことを紹介している。その文章の中に「私はまるで電撃を受けたかのようで、非常に驚き、理解に苦しんだ」という一節がある。彼自身、どのようにして投げ飛ばされたのかわからなかったのである。これによって、王薌齋先生が創造したこの種の爆発力が真に比類なきものであることがわかる。そのため、王薌齋先生は武術の技巧、例えば頭、手、肩、肘、膝、胯、足の各種打法に精通していたが、それほど重視していなかった。彼が重視していたのは爆発力の試力鍛錬と超速動作の訓練であった。そのため彼は『大成拳論』の自衛の章で36種の打撃方法を述べているが、文章の最後ではこう言っている。「始終下乗の功夫であり、聡明智慧ある者はこれを習う必要はない」と。これによって見るに、彼はすでに、もし全身の肌肉と経絡を同時に共振させ、力を思うがままに外に爆発させることができるようになれば、この一撃は万撃に勝り、確かにそれらの打法を用いる必要はないということを深く認識していたのである。

(三)意念在拳中的効応

意念の運用については、前に述べたように試力の開始時からすでに運用し、もしうまく運用できれば効果は大きく、勁も速くやってくる。試力時は全神を貫注し、意を散らしてはならず、念を断ってはならない。自分自身の動作をしっかりと掌握し、動作は必ず意念としっかりと合っていなければならない。「動作は微であればあるほど、精気神はますます全うし、慢は快に優り、緩は急に勝る」のである。動こうとしながらも止まろうとし、止まろうとしながらも動こうとする意があるが、イメージ的に言えば、まるで物憂げに動いているような状態である。このような動作を熟練して掌握できれば、壁と呼応しようと、宇宙の空気と呼応しようと、これらの場所の效応力、すなわち感応力は、試すのが安定してゆっくりであればあるほど勁は大きくなる。試力では松緊の気波の作用を感じることができ、つまり、あなたが使う力が大きければ、それが跳ね返しってくる勁も大きく、もしあなたが力を緩めれば、效応力は小さくなる。效応力の大小は試力次第なのである。以上で述べたのは、試力段階で運用する方法と效応である。もし力を試練して随意に応用できるようになれば、さらに素早い動作で試さなければならない。もし素早い動作をする時にも、力を随意に応用できるのであれば、それこそ実戦の本領が十分についたということである! 王薌齋先生はこう言われたことがある。「神意の応用において、精神は満ち溢れ、神は霧のごとく、意は霊犀のように敏捷で、猛馬の奔放、神龍の嘶く勢を具えているべきである。神意が一たび交わると、雷霆が甲冑を鼓舞し、雪霜が草木を肃するかのようで、天羅地網の如く逃れられるものはない(運用するのは立体的な力である)。私はこの神と意の運動を超速運動と名付けた。その速度の速さは、あらゆる速度を超越している」と。これによって、神と意が超速運動の主帥であり、いかに運動するかの指導者であることがわかる。武術の習練者はよく、実戦時には目が手から離れることなく、勇猛さは精神に随うと言う。今や我々は生理学的観点から、意がどこかにあれば、気血の力がそれに随ってどこにでも至ることを身をもって体得している。もし精神が奮い立ち、意念動作が超速であれば、素晴らしい效応を得たいのなら、勢は必然中にある。

爆発力を用いて敵を撃とうとするなら、試力の基礎が必要である。試力の基礎があれば、実戦時には、発力する前に、敵に面しながら刹那にその手が動くのを静かに待たなければならない。しかし、精神は奮い立たせ、意念を散らさず集中し、笑顔を湛え、余裕をもって相手の疲労を待つ。先に手を出さず、敵の動機を見極め、敵が動こうとすれば私の手がまず至り、必然の勢で勝利を収める。

要するに、拳法における意念の運用は非常に巧妙であり、時には直観のままに動き、時には感覚に頼って外に発する。敵がまだ動いていない時に静かに力を蓄えて動くのを待つのは、敵を撃つ絶招であり、その效応力は比類がない。

秘静克『大成拳実用学説』北京体育大学出版社より