意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

試力三問(『大成拳新視野』より)

どのような試力を練習するにしても、自分に三つの質問をしなければならない。

一、全体の意力が円満かどうか
二、自分の意力がいつでもどこでも応感して発揮できるかどうか
三、全身の精神力が宇宙と呼応できるかどうか

これらの疑問を苦労して練習して一つ一つ解消しないのならば、試力は普通のゆっくりとした動作と大差なく、ただの太極拳の亜種に過ぎない。

1.関于意力円満

意力円満とは、大成拳の站樁法が静から動へと移行する際の鍵であり、試力と站樁法が乖離していないかを測る最初の基準でもある。意力円満とは、試力時に上下左右前後の六面が均衡して争力があることで、絶対的な用力を避け、単一方向へ力を排除することを指す。この力は站樁法では静力の形で存在し、試力は静力の形式から動力の状態へと変化させ、方向性のある身体の移動の中で上提下墜、左右横撐、前頂後靠という全方位の渾元互争を実現することである。高手の試力を観察すると、運動のどの時点で停止しても、試力者が次にどの方向へ動くかを見分けることができない。これは六面争力が一致して均衡していることを示す特殊な現象であり、一朝一夕に達成できるものではない。言うまでもなく、意力円満は試力功法の要点であり、学習者は意識的にそれを体認すべきである。さもなければ、試した力は根無しの木、源無しの水に流れてしまう。

意力円満の境地に達するためには、試力者は体内力の伝達過程を理解し、厳守する必要がある。力の伝達は、少林、武当などの武林中の「名門望族」を含む多くの拳派が、「力は脚の踏み込みから始まり、脊椎から発し、指先で形作られる」という名訓に従っている。これは多くの技撃愛好者に広く影響を与えている。しかし、もし実戦で敵に相対する際、毎回の発力が脚から始まり、下から上へと連なり、肢体の端まで至る必要があるのであれば、その伝達時間は電光石火、一瞬の制敵の機を掴むのに不利ではないか? 明らかに、このような名訓と実戦は相互に矛盾している。

大成拳の試力は、自然界のある動物の動作習性を模倣しており、下肢の力は胯から足へ、上肢の力は肩から手へ、整体の力は重心の空間移動から脊椎の弾力的な伸縮へと肩に放射する。これを信じないなら、青蛙が水を泳ぐ動作を観察すれば結論が得られる。これにより、試力の伝達過程は時間を大幅に短縮し、より自由に起動し、より便利に用いられることが明らかであり、力が足から始まる旧説よりも明らかに優れている。おそらく、それらの拳派の名師もこの理を明らかに理解しており、真伝を惜しむために、故意に誤伝をして、武学の真髄を深く埋め、一般人には知られないようにしているのかもしれない。

通常、大成拳の師は弟子の試力の動作が意力円満に向かっているかを検証するために、弟子が練習しているときに、予期せぬ六方向から軽く叩いてみる。弟子が六方の外力に対して等しく円整な抗力反応を示せば、正しい伝達過程が既に確立されており、試みた力が円満であることを示す。

以上から、技撃の法則に合った力の伝達過程を掌握していなければ、試力の最初の質問に対する解決は不可能である。

2.関于意力能否随時随地応感而出

暗に変化を含むこと(=暗蔵機変)は、試力をする者が意力をいつでもどこでも感じに応じて発出するための重要な条件である。大成拳を練習する多くの友人が、試力は単に遅い拳技の動作に過ぎないと片面的に考え、各動作には攻防の意識が一つだけ隠されていると考えている。このような偏見に従って試力を練習すると、発力の機会を失い、試みた力は硬直的で、変化に乏しいものになる。なぜなら、試力の動作が単一の技法として退屈に繰り返し練習されるとき、攻防の意識に拘束されたことがその内在的な霊動を制限し、整体の動作が形式化された死招になり、試力の遅さが本来の意味を失うからである。

技撃の道は、予想外の時に変化が生じることがよくあり、試力の際にはこの点を考慮しなければならない。例えば、鈎锉試力の前推の勢について言えば、試力者は少なくとも五つの対応方法を想定しておくべきで、例えば、堵、圧、拉、撥、閃などである。それに応じて、試力の前推の動きには、変化によって変化を制御する五つの方法を隠すべきで、塞がれた(=堵)場合はその勢いでに挂で応じ、押された(=压)場合は逆の勢いで突く(=鑽)、引かれた(=拉)場合はその勢いで衝突する(=撞)、払われた(=抜)場合は勢いを変えて削る、避けられた(=閃)場合はその勢いで斬る(=劈)などである。

これらすべてにおいて、習者は精神を明らかにし、一をもって三を反映し、決して方に偏ることなく、各人の持つ独自の気質を失ってはならない。技撃者が遭遇する可能性のあるすべての状況とその解決策を試力の練習に注入すれば、遅くなることは避けられず、正に「動は微細であればあるほど、神は完全になる。慢は快よりも優れ、緩は急に勝る」である。もちろん、技撃の中での種々の突発的な変化に対する理解は、実戦経験の増加とともに高まるため、試力の練習は頻繁に実戦に参加することと同時に行われるべきである。試力功法は、ある種の拳技の単純な繰り返しではなく、緩中に至る所に潜む殺意を含んだ特定の運動状態であり、動作の始、中、未のいずれの段階でも蓄発することができ、一定の進行規範はない。

このようにして、試力の勢は多種多様な技撃の変化を引き起こす導火線となり得る。暗に変化を含むことは、「意力がいつでもどこでも感じに応じて出せるか」に対して明確な指導方針を与え、意力がなぜ発せられるかを理解し、同時に観察者に試力のゆっくりとした適度な深みの中に含まれる威嚇力を感じさせる。

力が糸を引くようであること(=力如抽絲)は、試力者が意力をいつでもどこでも感じに応じて出せるためのもう一つの重要な条件である。試力を練習するには、全動作の中で最も薄弱な環節の勢が尽きる寸前に、力を逆に運力する瞬間は、まるで道が尽き、旅人が振り返って帰るその瞬間のようなものであることを知らなければならない。この時に少しでも怠けると、習者の体内力が中断され、この状態が非常に短期間であっても、体外に意力を発することができなくなる。この問題を解決するために、先輩から伝えられた力が糸を引くような妙法があり、蚕の繭から糸を引くような均一な力道を利用して、力の均一性から速度の均一性を求め、速度の均一性から勢の順逆円滑な天成へと進み、後続の力が絶え間なく続くようにし、試力の軌跡が始まりも終わりもないようにする。一つの「均」の字が糸を引く力の精髄を語り尽くす。この特性を取り入れることで、試力動作の起伏、来往の接続点は停滞せず、一つの力が注がれ、勢が長江の水のように絶え間なく流れるようになる。試力の二つ目の質問に対する具体的な練習の疑問を解く過程で、力が糸を引くような効果は無視できない。

3.関于全体之精神力量能否与宇宙発生呼応

広大で無極、深遠で無窮の宇宙が最終的にどれほどの能量を秘めているか、どのようにしてそれを取り込むか? 大成拳の試力独自の練功心法は、神秘的で巨大な宇宙の能量を効果的に取り込む手段である。

地球の重力を観察し、それと互いに争うことは、試力者が宇宙と呼応する方法の一つと言える。站樁の極度の松静の中で、すでに地球の重力の存在を深く感じ取ることができ、試力訓練は、自身と地球との間の互争を静から動へと変化させることである。行うほどに遅くなり、互いの争力が均衡に向かい、地球と宇宙からのその極めて重い力感を得ることができる。

表面上は、試力では重心を下げ、体重が地面に反発力を発生させることを通じて、様々な試力の最初の動力とする。しかし、この時に想像するのは単純に体が下に沈無ことや地を蹴ることではなく、全ての精神力を動員し、全ての身心を地球全体との力強い互争に徐々に引き入れることであり、まるで二つの力が互いに引きつけ合い(=相吸)、そして押し合い(=相斥)、身形は借力して立ち上がり(=抜起)、次の動作に続いていく。

地球の重力と互争する試力は、人と地面を一体として凝集させ、功を深めると、外界の作用力を接触部位から地下へと引き入れ、身体が導体となり、地面が大部分の外力を受け止める。これが試力の達人が取る姿勢は高いのに関わらず、重い山のようである根本的な理由である。地球は宇宙の一部であり、人は地球上の一員である。試力で地球の重力を上手に利用すれば、宇宙の深い所の巨大な能量を遠くから感じ取ることができ、これが「全体の精神力が宇宙と呼応できるか」を実際に悟る最初の一歩である。

空気阻力を感じ、それに等しい力で応じることは、試力において宇宙と呼応するさらなる方法である。弁証法が示す通り、空気阻力は動作が極速になる時に最大であり、極遅になる時にも最大である。試力を初めて練習する者が指導者の試力を見ると、身の前後に明らかに何もないのに、非常に力を使って行動しているように見え、まるで大きな阻力に遭遇したかのように感じられる。

実際には、この時指導者は非常に空霊を自覚しており、試力功法の極めて遅い速度を通じて空気阻力を極限まで高め、本来の作用力を刺激し、最終的に雄渾な運力、何にも阻まれない効果を達成している。これは、一部の技撃者が筋肉群をわざと硬直させて威武の「努力」の態を示すのとは根本的に異なる。試力を行う者は空気阻力とそれに応じる力を過不足なく行う必要があり、これによって後の実戦での拳が空に出ず、力が空を打って戻らない(=拳不空出、力不空回打)ための良い基盤を築く。この意味で、試力は人と空気が作拳を行うものであり、練習者は必ず力の波長を無限に延ばし、空間の限界を突破し、尽きることのない神意を遥か宇宙に投げかけ、宇宙力と呼応することで、最も捉えがたい試力の第三の質問を解放することができる。

黄景文『大成拳新視野』より