意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

試力(『拳学新編』より)

站樁は基礎であり、その妙なるところを得るには、気力の運用を習うべきであり、その初歩は試力にある。試力は力を得る手段であり、力は試すことで自ずと発するところを知り、また知ることでその用を得る。故に試力は拳法を習う上で最大の鍵である。

初めて試す際は、渾身の気力を均整にし、関節を霊活にし、骨格を支撑し、筋骨を収斂しながらも伸び伸びとさせ、そうすることで全ての力が自然と外へと発するようにする。動く時は、慢は快より優れ、緩が急に勝る。さらに、意は断たれず、霊は散じず、一箇所が動けば全身は牽引される。いわゆる動けば動かないところはなく、動いても動かないように、である。習拳においてこの地点に達すれば、全身の力が一つとなり、自然に動静は中を守り、試力の功夫はその奥妙を得る。

前述した通り、気力が均整で、関節が霊活で、骨格が支撑し、筋肉が収斂しながらも伸び伸びとする。「渾身」という二字は、これら四つの作用を説明し、同時に一身に備え、互いに関連していることを意味し、全体の作用は分けることができない。拳を行う際は、この体認から自然と得られる。動静は一意の支配に基づき、全身を自然に任せ、少しの滞りもあってはならない。試力の二字もまた、意中に留めず、徐々に肢体を動かし、一箇所を動かすときは全体を想い、意によって導き、神経で全身を支配する。大動くは小動に及ばず、快動は慢動に及ばず、動きが微であれば神は尚更全てを包む。不動の動ができれば、絶え間ない真動を得ることができる。心意は周到に照らし、気力は一致し、円整に帰する。上下左右を忘れず失わず、このようにすれば全身の力は一つになり、力は円(中)に止まり、動静に中があり、妄動は自然となくなる(滑力、暴力、硬力、滞力、混力及び雑多な力の発生する各種の不善な力は心から発しないため、自ずと生じない)。

力が中に止まれば、常に静の至りで変わりがない。力が一つになれば、形変の始、形変の終、始終が一動で、静を一守する。心を中に定めれば妄動はなく、動は适宜となる。この静は本体であり、動は作用の真理である。

薌齋先生は言われた。「力の力を感じないことは、変化において最も大きい。自然に生じて力を感じない、故にこれを渾円と言う」。試力は「徐徐」の二字から体認の功夫をするべきで、そうでなければ、本来の気力がどうであるか、そしてそれをいかに用いるかを試すことはできない。

習う時、急迫から出るようであれば、勢において必ず先に吃力を使うことになり、吃力を使えば自然ではなく、一方に偏重し、滑と暴を失う。全身に元々備わっている混元力(一貫力)が体外に流通することができない。力の用で最も大きいのは変化である。陰陽虚実、開合順逆が相互に根と用を成し、自然に順生して、滔々と絶えることなく、用い尽くすことがない。変化は異なっても、その力は常に一つで変わらずにいる。力を外に発するには、手、肩、肘、胯、全身の関節の骨を縮め筋を伸ばし、気血を鼓蕩させ、全面で力は鋒棱を出し、生き生きと絶えることがなく、共に一中を争う。力が一中を争うとは、相乗の力を言う。その力は争力、または混元力と言い、全身の至る所が上下左右前後四隅の相乗の力を均等に備えている。初歩の試習では、二争力を求めるべきで、手を伸ばす時には、同時に前は伸び後は引き(=撤)、上に持ち上げ(=托)下に押し下げ(圧)、外に支え(=撑)内に巻く(=裹)、という相乗の力がある。一つの中心から異なる方向に発して、相等相乗である。二争力を悟ったなら、全身の各部分が同時に全面から力を生み、相乗しないところがなく、混元一致し、一心で共争し、気力が貫通し、全身に空隙がない。拳においてこの争力を得ることができれば、神気と意力の真実の合一を実現できるのであり、その後で中を得たとも、力を得たとも言えるのである。

力が一心から生じなければ、その意を失い、八面玲珑の巧みさを失い、分合、虚実の互用の基を失う。「一動全転」、この「身」の字を正しく理解し、意と無意の間で自然の神機の妙を悟る。それこそが試力の功夫の妙境である。

薌齋先生曰く、「初学の試力では、手首や指先に少し力を加えることができるが、手首以降は力を加えてはならない」。このような練習法は入門に適している。また、「どのような練習法であっても、動静を互いに枢軸として、全身が混元一争しないところはなく、これを得て始めて、象外の妙、身外の意、拳外の拳を得ることができる。得ることができるかどうかは、一度試してみることでわかり、一度試すことによって拳道について語ることができる」。

薌齋先生は教拳において争力の作用を明確にし、気力が自然に発動することを求める。これは拳学の不伝の秘であり、今、人々に示すために明かされている。その言葉は非常に詳細であり、その方法は容易いが、それを得るか否かは学ぶ者に依存しており、学ぶ者の志向と体認する功夫がどうであるかによる。