意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

『姚老意拳講話録音資料』(10)

この後、いわゆる散打について話しますが、意拳における散打は、散打の招ではないことをまず最初に明確にしておきます。では、あなたの発力は招になるのでしょうか? そうです、招になります。しかし、どのように招として扱うのでしょうか? それはあなたが使う方法でしょうか? しかし、それは固定されたものではありません。私はどこでも発力できます。それを方法と考えるならば、拳套を練る際に操手を練ると言われます。操手とは何でしょうか? 操手は、常に一手を練ることです。北京の人々が言うように、「千招を恐れず、ただ一招が熟すことを恐れる」というのが操手を指します。

意拳の訓練にも確かに方法が存在します。発力はすべて方法ではないでしょうか? 王薌齋先生は禅宗の言葉を使って「一法不立、無法不備」と説明しました。あらゆる方法を取り入れることが、一つの方法であるという意味です。どこに触れられても、そこに反応します。つまり、どのような方法も使うことができます。拳術を一定の水準まで練習すると、これを理解できるようになります。しかし、初心者には規則や枠組みがあり、規則がないわけではありません。先ほど私が話した発力も、規則や枠組みの一部です。二人が対峙する際、初めて練習する時にも規則があります。そのため、最初に話すべきことは「間架」についてです。

間架とは何でしょうか? 例えば、二人が向かい合って立っている場合を考えてみましょう。あなたが初心者で、基本的な姿勢を忘れたとします。しかし、一度手を出すと、なぜかその姿勢になり、なぜか斜めになります。それは間架を調整しているからです。例えば、私があなたの頭部に向けて猛烈な一拳を打とうとする場合、意拳は単なる防御ではなく、攻守を組み合わせることを主張します。私があなたに猛烈な拳を打つ場合、あなたがそれを防ごうとするならば、それは意拳における間違いです。私があなたに飛び込んできたなら、直接私を打つすべきです。手を捻って、頭を低くしないでください。ほら、私が一拳を打つと、それを滑らせます。あなたがそこで捻れば、私の方向をずらせます。重要なのは、いつ打つかです。

このような状況が発生した場合、どんな拳術家にとっても予想される動きがあります。あなたが下部を攻撃する時には、なぜ相手を一時的に遮るのですか? 直接前に進んだ方が良いのではないですか? それは、あなたが相手の下部を塞いでいることを意味します。そうすれば、私たちは下部にぶつかります。あなたはこの動きをどう説明しますか? この状況で、私が彼を攻撃するなら、最も鋭い方向を捻ります。これが間架です。そのように攻撃することはできますか? はい、小李子の歩は不利です。この方向に回り込み、両側からねじります。これが彼を控制する方法です。恐れることはありません。どこを攻撃しますか? はい、距離について話しましょう。彼が最初に私を攻撃します。ですから、これが間架です。あなたが前進して、すぐに接触すると、私はここで待っています。もちろん、これは身歩です。後退する場合、例えばあなたが私に近づくと、手で頭部を守ります。私の頭部は手の後ろに隠れています。私は遮る必要はありません。一歩踏み込んで、相手の重心の垂線を踏みます。これは少林拳で「踏中門」と呼ばれ、また「踩中門」とも呼ばれます。この原則は、人の重心の垂線に関するものです。もし誰かにこれを踏まれたら、抵抗しない方が良いです。抵抗すればするほど、投げられる可能性が高くなります。下部が安定していると、後退するしかありません。前進はできません。

これは単なる手の打撃であり、主に二人の距離の問題から始まります。これは棋をするようなものです。私は若い同志によく話します。象棋(中国の将棋)を例にとると、私は下手ですが、もし相手が私に既成の事実を作らせたなら、たとえ今日の象棋の大師であっても負けを認めざるを得ないでしょう。でも、どうやってそのような状況を作り出すのでしょうか? 私は一生に一度もそれを達成することはないでしょうが、もし実現できるならそれは学問です。どうやってその形を作り出すのでしょうか? ですから、拳術では一つ一つの技や形を研究するのではなく、全体的な視点を持つべきです。

最初からどのようにそのような状況を作り出すか、それが問題です。二人が互いに引き分けることもありますし、もし私が彼よりも能力があれば、一歩一歩計画を練り、彼をその道に追い込むこともあります。また、罠を仕掛けて、気づかれずに行き止まりに追い込むこともあります。だから第一に、二人の距離と位置について研究することが重要です。さらに、拳術では、接触しない状態での松緊についても話します。二人が戦った後に松緊について話すのは当然ですが、二人が接触していないときにどうやって松緊があるのでしょうか? それは精神的な松緊です。あなたの動きが相手を緊張させることができるなら、それはあなたが技術的に優れていることを意味します。自分が何をすべきかを知っていれば、緊張することはありません。これは唯心論ではありません。以下で、より具体的に説明します。

見てください、彼はそこにいて、私はまだ進んでいませんが、これは間違いです。実際には、意拳の中で、彼はすでに完全に受動的になっており、私に指揮されています。彼は私をどのように攻撃すべきか分かっていません。私は相手がどのような矛盾を抱えているかを知っています。実際には、相手は私を攻撃するのを忘れていて、完全に精神が吸引されています。もちろん、これは一般的な説明に過ぎません。

先ほどは推手について話していました。推手は規則に従って行うべきで、私たち自身で練習する場合、二人はこのように立ちます。これは平等な機会であり、誰にも有利ではありません。推手で二人が接触する時、彼の一方の手が私のこの手の上に、私の一方の手が彼の手の上にあります。これも平等な機会で、誰にも有利な状況ではありません。最初に明確にしたいのは、私たちが初めて接触する時、感覚で相手を知り、方法を使いません。相手は歩法を組み合わせてくるので、歩が侵入してくるのを見て、自分自身を撤退させます。ですから、歩は常に活発にしますが、線を越えてはいけません。太極拳では、ここまで覆うと言われますが、実戦で、相手が下に一蹴りすれば、倒れてしまいます。相手に有利な状況を作らせてはいけません。歩法は霊活でなければならず、相手がどのように力を使っているかを理解できなければなりません。手で相手の方向を変えるだけでなく、同時に彼の距離を伸ばし、力を奪うことも重要です。ここにも枠組みがあり、これが変化する部分です。

例えば、私たち二人が手を合わせた後、一方が上で一方が下になることがあります。相手が来た場合、この時点で二つの相反する力量を使って、私の方に推し出すことができます。この手で相手の二つの部分を分けて、前に推し込む時、私は一方の手を上に、もう一方を下に持っていくことができます。つまり、彼が下にいて、私が上にいるということです。これら二つの手も平等な機会です。私の手を上に持っていき、彼が積極的に攻撃してきたらどうすべきでしょうか? 一つの方法は、もし私の功夫が彼より高ければ、彼が私に向かって来た時、私はこの方向に移動して、彼を推し出します。もし私たちの功夫が等しいか、私が彼より劣っている場合は、彼の重心を動かす必要があります。彼が私に向かって来たら、彼をこちらに牽引します。こちらに牽引することも、あちらに牽引することもできます。これが一つの行動の方法です。

もし私が下にいて、彼が上にいる場合、多くの変化が可能です。この方向に両手を使い、彼が手で私を投げようとしたら、私はこの両手をその方向を指します。これを「形曲力直」と言います。私のこの両手はその方向を指していますが、実際にはここを捨てて、彼に譲っています。彼は私の力を完全に分断できると思っていますが、その瞬間に私が少し遅く動けば終わりです。ですから、これは太極拳とは異なります。太極拳では、引進落空、四両抜千斤で相手を完全に引き寄せてから発出します。例えば、相手を引き寄せた後、私がこのように肘を使えば、同様に相手を倒すことができます。またはさらに重傷を負わせることもできます。次に、私は彼の手を安定させません。彼が安定すると、私は変化します。そのため、しばしば肘を付ける(=貼)時に、例えば彼が私を引き連れようとするなら(=帯)、私はこうやって彼を振り払い、彼が前に倒れた瞬間に、私はこの方向に彼を打ちます。ですから、この推手は太極拳とは異なります。なぜなら、常に本当の散打の範囲を離れていないからです。