意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

葉希聖先生の著書『難言集』

(1) 題弁

意拳正軌』の序には、「技撃の道を言い表すことは甚だ難しい」とある。今、私はその難しいことを強いて表現するが、それは「言葉は心無くして出る」ということである。「心にその心無し」、「無心の言葉」、これを「無を以て為す」と言うのである! 朱谦之の解釈によれば、「時とともに移り変わり、物事に応じて変化する」である。故に言葉にするのが難しいのである。

(2) 韓嗣煌先生打油詩(作者 ─ 韓嗣煌先生)

「神意を重んずることなく、ただ闘牛を重んじ、鯉が柳の枝にかかり、猿が泳ぎ、羊が木に登るようである。愚かな子供は依然として鉄球を抱くことを夢見る」。散手や推手においては、闘牛を避けるべきで、拙力が生まれやすい。

(3) 歩原韻和韓嗣煌先生打油詩(作者 ─ 葉希聖)

「努力によるもつれ合いは闘牛に似て、髪を引っ張り、衣を引き裂き、『パンツの裾』を引き抜くようで、二人とも瓢箪のように地面に倒れ、「英雄」を演じながら雪玉を転がすようなものだ」

(4) 歩前韻縮脚詩(作者 ─ 葉希聖)

「拳を重んずることなく、ただ吹聴する。山を隔てて牛を多く打ち殺し、千招万式は何になる? ただの破れた球(無価値なもの)である!」

(5) 力之訣 ( 附注 )

試力は糸を引くようで、発力は縄を断つに似る。緊を求めるにはまず松から始め、運力はあたかも綿を打つようである(附注)。

(6) 単簡勢之簡義

「空中の旗」、「波の中の魚」、「水に浮かぶ木」、「風に巻かれる木」、「湖の中の舟」……他ならず、勢に乗じ、勢に順じ、勢に応じ、勢を乗じ、勢を借りるのみである。

(7) 六力而巳乎

意拳正軌』には「動いた時は大小の関節に上下前後左右百般の二争力があり、全身の渾元力を得たようである」とある。

(8) 具形与形具

意拳彙綜』を読むと、『意拳正軌』の歌訣の一節に「形あるものみな散じることなく(形具切忌散)」とあり、「形具」という言葉について考えると、これは書き写した者の誤りであると私は考える。ただ単に二つの字を入れ替え、「形具」を「具形」と書き直せばよい。なぜなら「意拳正軌」には「具形によって出て、無形によって落ちる」という文がある。また、「形あるものみな散じることなく」とは、「形は破体しない」「破体すれば力は散じる」という意味の統合である。

(9) 師生口径

王薌齋老先生(以下、王老と略す)は常に「直接了当」と言われた(「直截了当」とは書かなかった)。韓星垣老師(以下、韓師と略す)は常に「一があって二はない」と言われた。王老は「一触即発」、韓師は「一碰就出去」と言われた。このような打法は、はっきりとテキパキ(=清脆利落)であることを基準とし、ぐずぐずしていることは能あるとは言えない。

(10) 「推」与「発」

一般的な人々は「推」を「発」と誤解しているが、「推」と「発」は関連がありながらも全く異なる二つのものである。個人的には、ある状況下では「推」は手段であり、「発」は目的である。「推」は持続的な力であり、「発」は力を放出することである。「推」はレバーが物体を動かす(起重作用)ようなものである。「発」は弓が矢を放つようなものであり。自身が弓であり、相手が矢である。これは私たちがよく見る、怒りに満ちた顔、真っ赤な顔で、首筋を突き出し、無理やり勁を使って前に押し進むことで相手を後退させ、重心を失わせるか、椅子にぶつかって倒すことを「発」と呼ぶのではない。

(11) 推手之本

推手とは、言葉の上での単なる「手を推す」ことではない。そうであれば、文字通りの推手であるが、技とは言い難い。推手の意味は多岐にわたるが、例えば聴力、化力などがある。ここでは「本」として、推手の際の力の源について語る。推手とは、私の足で私の身を推し、私の身で私の手を推すことである。これを「本」とする。もし身体の力を加えずに、単に手で相手の手や身を推すならば、それは「末」に過ぎない。手は本来末梢であり、足が根本である。単に末端の手の力で相手を推すならば、その力は必然的に片面的で、局部的で、本末倒置の力となり、容易に制される。故に推手を行う際には、足で身を推し、身で手を動かし、身で手を使って相手の身や手を推す。これを「推已及人(訳注:『論語』の一節。自分の考えを使って他人の考えを推測するという意味)」と言い、笑い話のようなものだ!

(12) 試力無限于動作之大小

「大動は小動に及ばず、小動は不動に及ばず、不動の動こそが絶えることのない動である」。一般的に意拳を練習する者は、大きな動作で試力を行うことが試力であると考え、手指まで震えるような強い勁を得ていると思い込む。しかし、「動は微であればあるほど、神は全となる」ことを知らない。韓師は「できるだけ動が見えないことが最善である」と言われた。拳論には「動こうと欲すれば止まろうと欲し、止まろうとすれば動こうと欲する。動中は止まらないことができず、止中は動かないことができない」。「動く原因は許されるが、動く結果は許されない」とある。試力は動作の大小には限定されない。試力中に手指が震えるのは、意念が指先に達し、出ようとして出ない現象である。意図的に模倣したり、不自然な動きをすることは避けるべきであり、形は似ていても力に至らない。手指の震えは上述のようなものであり、他の原因も多い。意念で任意に震わせること(例えば推拿術の振颤法など)、寒さによる震え、恐怖による震え、激怒による刺激による震え、精神的、神経的、心臓の他の病気による震えなどである。

(13) 平樁与戦樁

「平樁」は健身樁とも呼ばれ、「戦樁」は技撃樁である。これらの樁の名前は韓師から伝わったものである。私は特に戦樁という名前が好きで、それを聞くと、まるで戦いの角笛が鳴っているようで、すぐに勇ましく、気高く、精神が奮い立ち、勇気が百倍になる。平樁と戦樁はどちらも意拳の樁法で、「弱を強に変え、拙を霊に変え」、「勁を生むのに利があり、実戦に役立つ」。健身と技撃は相補的であり、唯一の違いは正面と斜面のみである。平樁が技撃を鍛えられない、戦樁が健身に至らないと本当に信じることができるだろうか? 正斜は互いに転換し、奇正が相生するには確かな理がある。韓師は拳を教える際に、平樁から戦樁へ、戦樁から平樁へと転換し、互いに根と用を成し、中に守りながら中を用い、敏捷で非凡であった。現代の多くは平樁と戦樁を分け、関連がないとするが、これは誤りである。正面の平樁はまるで客を迎えるようであり、斜面の戦樁は客を送るようである。正面は敵を誘い込み、斜面は敵を撃つ(平面でも打ち出す(=撃発)ことは可能である)。王老の詩に「正面が微妙に転じれば斜面となり、斜面で迎え撃てば正に破壊できる」とあり、平樁から戦樁への転換とその相互関係をうまく表している。左斜面から右斜面へ転換する際、過程は必ず正面を経由する。正面を経由せずにできるだろうか? できない! そうでなければ、左斜面に偏り、半身不随の人になってしまう。故に「面という面は打ち出せ(=撃発)、点という点は皆ばねである」というのが私たちの積極的な目標である。

(14) 駝背与突笃 ( 突臀 )

「一身には五つの弓が備わっている」という考えは、形意拳訣において初めて見られ、「一身に五つの弓があり、身弓が最も重要で、肘と膝は四つの弓であり、発勁は身から離れない」とある。後には陳家太極拳でも見られる。しかし、現代の人々はこれを駝(ラクダ)の背や突き出た尻とすることが能事と思い込んでいるが、これは誤りである。そうすると、まるでばねの弾力が疲労しているようで、放があっても遒がなく、争はあっても斂がなく、人に発することができず、また自分の発した力も消えてしまう。故に「身弓」の重要性は、腰脊で発力する際に形成される姿勢にあり、駝背や突き出た尻ではない。

(15) 含胸抜背

拳界には含胸抜背という言葉があるが、実際には胸を含むことができれば背は抜け、その逆も同様である。ただし、抜背という言葉は「背中を天に向ける」動物には適用できるが、人間に使う場合は考慮が必要である。人間が立ち上がって以来、抜背とは頭頂の挺抜の代替と表されるべきであり、抜背ではなく円背に改めるべきである。『意拳正軌』にも「胸背は円であるべき」とある。

(16) 円胸背与脱肩

円胸であれば自然と円背となるが、脱肩を理解すれば一挙両得となる。用肩の法には、南方では脱膊や吐肩、北方では脱肩、順肩、送肩という言い方がある。王老の詩には「脱肩、松腕、腰を楽にする(=懒束)」とあり、韓師も「抜腕助長」と言っている。円胸、円背、脱肩の三つの動きが同時に行われると、「打破」の力が生まれる。

(17) 増長力量

意拳には力量を増大させる功法を教えない」という声を聞くことがある。しかし実際にはそうではない。意拳の站樁、試力、発力はすべて力量を増大させる功法である。拳法を学ぶ者はよく「単純な姿勢で動かずに立っているだけで、どうやって力が増すのか」と主観的に考えがちだが、これは理解がないことである。実際には、このように動かずに立っているだけで、力量を速やかに増大させることができる。試力や発力は更に力量を増大させる功法である。残念ながら、学ぶ者が続けずにすぐにやめたり、一時的に練習しては長期間休むなど、努力を惜しむ者が多い。さらに幸運を期待して、一夜にして大きな力を得る「神方」を望む者もいるが、これは言葉にできないほど難しい!

(18) 日用平常之間

王老は『意拳正軌』自序で「真法や大いなる道は平常の生活の中にある」と述べている。例えば、船頭が櫂を漕ぐ、船夫が棹で船を進める、車輪が水を汲む、車軸が回転する、水中で泳ぐ、力士が物を持ち上げる、凧を遠隔操作する、農民が杵をつく、歩くように人を打つ、弓を引くように力を蓄える。また、穴をあける、木を鋸で切る、木を削る、石臼を押す、鉤や鑢を使うなど、これらは全て二つの力が形成され、多層的な意味があり、熟考する価値がある。

(19) 站樁如打傘

傘を差すことを站樁に例えるのは、笑い話のようだが、その理を深く考え、その意を理解すれば、実際に技に近い。傘の柄は身体に、傘の持ち手は足に、傘の頂点は頭に、傘の開閉の軸は腰と胯に、傘の骨組みは上肢に相当し、傘には開合、松緊、遒放、方円、支撑力、弾性力などが含まれる……さらに力場もある。

(20) 力場

抱樁を例にすると、両手で抱える空間、足の間の空間、上肢と下肢の間の空間、頭と上肢の間の空間、上肢と上下の体躯の間の空間、両足の間の空間……全てに力場が存在する。この力の場は、距離を置いた二つの磁石が引き合う磁場のようなものである。この力場は、「間架」の各肢体の間の空間において、神意によって霊通し、有形の「間架」と無形の「間架の空間」の統一体を形成する。傘の力場は傘の布で例えることができ、皮球の中の空気も力場に例えることができる。天体の各星々の間にも力場が存在し、これは宇宙の引力(万有引力)によって形成される。人体の間架の拳学における力場は「争力場」または「渾円力」と呼ぶことができ、電力場や磁力場とは異なる。師である韓星垣先生の深い知識と豪放な、雄大な功力は、これと密接な関係があり、単なる肢節の片面的な力ではない。過去に韓師は、站樁、試力時には全体に膨張感を持ち、「膨らむ(=鼓)」ことを含めて間架の空間を意識するように言っていた。拳論には「静かなることは海の溢れるように」、「運力は海の溢れるように」、「力が漲るは海の溢れるように」、「提抱含蓄し、中に生気を収めることを円と言う」、「間架には乗じる隙はない」とあるが、これらは点、線、面の問題ではなく、立体の問題である。

(21) 抱球之意義

抱球の假借については、単に球を落とさず、球を潰さないということだけではない。その主な意義は以下の通りである:

(一) 間架を規範化し、定形にする。
(二) 松でありながら緩みすぎず、緊でありながら硬直しない。
(三) 外方内円で、中に生気を収める。
(四) 撑抱円満にし、力の漲ることを体感する。
(五) 不動から絶え間ない動に至ることを求める ……。

(22) 簡単之松胯法

問:胯はどのようにして緩めれば(=松)よいか?
答:椅子に座って体験してみるとよい。

問:胯を緩めるにはどうすればよいか?
答:背が低い人のように振る舞えばよい。

(23) 胯之訣

胯が松とならなければ、腰は用いるのは難しい。少しの動作でも、胸が吃力となり、意があっても力が伴わない(上記二つの文はいわゆる「有心無力」である)。敵と交戦する際、両手が空だと、至る所で力を受け、必然的に中を失う。この問題を解決する方法は、晏公を模倣することである。これをしなければ、拳勇について語ることは難しい。注:晏公は、伝説によると背が低い人物である。

(24) ?胯

松胯、沈胯、坐胯、墜胯、吸胯……。松胯と沈胯は松沈であり、挺抜と対照的である。松は沈に似ており、沈もまた松である。坐胯は南方の「坐馬」と同じである。平江不肖生の恺然先生は『拳術』の一書で「人を打つには先に馬に座る」と述べている。これは坐胯のことであり、坐胯は確かに松沈の妙がある。他は皆の理解に任せる。

(25) 坐胯 ─ 松沈之妙

坐胯 ─ 松沈は、化力の用にも「作用力」としての用にもなり、その「作用力」は同時に「反作用力」を生み出し、打撃の化打の妙を備える。

(26) 取力訣

硬進は人が推すように、借力は壁に寄りかかるように、つま先は驚弾で急ぎ、かかとは長く発勁する。

(27) 肩撑肘横

肩撑肘横は肩架の重要な規則であり、これがあれば方円、支撑力、弾性力、杠杆力、三角幾何学的力が備わる。残念ながら、私たちは動作するときにこれを知らない。「その芳踪(足跡)はどこに探せばいいのか」という状態になる!

* 力之訣打棉附注 *

「打棉」は広東省の広花棉被の製造方法である。一本の棉被とほぼ同じ長さで少し弓形の工具があり、両端に牛筋で作られた弦を結び付けている。職人が木のハンマーで一撃ずつ、適度な松緊で、軽やかで澄んだ音を出し、リズミカルに長い弦を打ち、共鳴を生じさせて綿を弾いて柔らかくする。