意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

姚宗勲先生の著書『意拳浅説』

意拳は1940年から1948年まで「大成拳」という名で呼ばれていた。この武術は一代宗師の王薌齋によって創設された。王薌齋は清の光緒年間に、形意拳の名師である郭雲深の下で学び、教えを受け継ぎ、伝授を得た。その後、長江の南北の各省を旅し、多くの名師と出会った。武道を通じての交流、研究を重ね、二十年代中期に各流派の長所を統合し、不要なものは捨て、必要なものは取り入れ、真実のみを保持する形で、当時の花拳繡腿や一招一式の片面的な傾向を打破するために「意拳」を創設した。意拳と名付けたのは、拳術訓練中の意の重要性を強調するためである。王薌齋は一生を拳法に捧げ、中国の武術界だけでなく、香港、日本、東南アジア、英国、米国、フランス、スウェーデン、アルゼンチンなどの国々でも大きな影響を持っていた。王氏の門下生は多数いたが、技撃で実績を上げた者にのみ、名前を贈った。例として、韓樵は「道寛」、卜恩富は「道魁」、故人の趙逢尧は「道宏」、張恩桐は「道徳」と名付けられた。そのように名付けられたのは、わずか六人のみであった。これが王氏の技芸に対する真剣さである。

意拳は主に站樁、試力(試声を含む)、走歩、発力、推手、散手などの訓練で構成されている。健身と技撃の両方に重点を置いている。站樁は意拳の基本功であり、訓練の目的に応じて、健身樁と技撃樁(元の名前は渾元樁)の二種類に分かれる。健身樁は訓練過程で精神訓練と意念誘導による統率を同時に行い、精神を集中させ、全身を放松し、呼吸を自然に保ち、身体の各部を均等に発展させることを求め、健身樁と呼ばれる。意拳の健身樁は簡単で効果があり、ただ心を落ち着かせて、気を静にして立つことで、明らかな健康増進と病気予防の効果が得られる。これは、運動中に休息し、休息中に運動するようなものである。意拳の健身桩は現代医学に基づいており、自然に任せることを主張し、周天の循環、外気の発動や全身の発光などの説はなく、副作用がないことが証明されている。

渾元樁は技撃を学ぶための基本功であり、健身樁の基礎の上で、意念活動を用いて全身に「争力」を構築し、身体と外界との間に「争力」を構築し、「渾元力」と呼ばれるものを求める。その名を渾元樁という。

健身樁と技撃樁は訓練時の要求が異なるが、内部的には関連している。単に健康増進や病気予防のためであれば、渾元樁を練習する必要はないが、渾元樁は人の体質を強化するのにも大きな役割を果たす。したがって、これら二つの樁法は明確に分けることはできない。

意拳の全訓練過程では、常に意念誘導を通じて肢体を統率することを強調している。精神集中、呼吸自然、周身放松を求め、肢体の各部を一つの整体として連結し、さらに精神の假借を用いて、全身の隅々に「争力」を建立し、さらに身体と外界との間に「争力」、すなわち「渾元力」を建立することが求められる。争力は、身体の各部の松緊が交互に行われることと理解され、精神と肢体、肢体と外界が高度に調和し統一され、運動中に精神と身体の力量を充分に発揮できるようになる。意拳は、「松」と「緊」が人体運動の基本的な矛盾を構成すると考え、力量、速度、耐力、霊活、協調などの身体的資質はすべて、人体の筋肉の松緊によって制約される。松緊は、肌肉の松緊だけでなく、意念上の松緊でもあり、まずは意念上の松緊が先である。したがって、意拳の訓練では常に意の字を強調する。あらゆる運動は筋肉の運動であり、筋肉の運動は意念の導きから切り離すことができない。運動技能の形成における生理学的な機構は、正しい条件反射を確立することであり、条件反射にはまず健全な中枢神経系が必要である。ある動作を学ぶ際、繰り返し練習し、最初は協調が取れず不十分な泛化段階から、時には正しく、時には間違っている分化段階に進み、正しい条件反射を強化し、誤った条件反射を克服し、最終的に自動化段階に達することで、運動技能が習得される。自動化段階は、拳術における不期然而然、莫如至而至の高度な段階である。したがって、運動技能を習得するには、単に筋肉の運動に頼るだけでなく、意念の支配と肢体運動の統一に頼る必要がある。あらゆる体育運動の初学段階は、慢から快へ、静止から移動へと徐々に練習するものであり、速さを求めれば達することはできない。例えば投擲選手の場合、最初から速い回転で円盤を投げることを求めるのではなく、まずは基本姿勢からゆっくりと静止した状態で始め、徐々に回転し、地面を蹴る方法、身体を回転させる方法、胯を送る方法、最後に手を離す状態を体験する。この間、静止状態での模擬練習は欠かせない。不動の状態で動作の要点と、精神から肢体への動態を得ることが站樁である。したがって、技撃を学ぶ最初の方法は、この站樁から始めるべきである。站樁は条件反射を強化する最良の方法であり、精神の假借、意念誘導を通じて、無力の中に有力を求め、不動の中で微動を求め、静の中で動を求める方法である。さらに、運動生理学的には、人体が示す力の大きさは、筋肉の横断面の大きさ(筋肉の横径)と関連しているが、より大きな程度では、筋肉の生理的横断面に依存する。生理的横断面とは、神経が筋繊維の働きを支配する能力を指す。一束の筋肉には数千の筋繊維があり、通常の状況では、多くの筋繊維は働いていない、つまり神経の指令に従わない。しかし、訓練により、神経が筋繊維を支配する能力を高めることができる。これは、より多くの筋繊維を動員して働かせることができるということであり、意拳の站樁は実際にこの問題を解決している。実践が証明しているように、站樁訓練は精神から肢体へ、肢体から外界への高度な調和と統一を達成し、運動中に本来の内在的な能量と潜在力を十分に発揮することができる。

以上のことから、いかなる筋肉の動きも神経によって支配され、神経は精神意志の影響を受けるため、精神意志の控制が最も重要である。意拳において意の字を強調する理由がここにある。站樁の訓練を通じて、人体は高度に調和し統一され、肢体間が相互に連携して有機的な整体を形成し、相互に呼応することができる。これがいわゆる「一動而不動」であり、自身の感覚が高度に霊敏で協調する感覚がある、松緊の変換を通じて全体の弾力を培う。「無点不弹簧」を求め、技撃の中で発揮する。これが全身がみな法となる「一法不立、無法不容」の道理である。最近、ある人が「大成拳技撃十八法」を新聞に掲載し、王老からの密かに伝授されたと称していたが、実際は著者である彼が作成したもので、意拳の原則から逸脱している。法があるとすれば、それは拳術の原則原理のみであり、枝葉末節の偏狭な方法ではない。これは少しでも実践経験のある拳家には理解しやすい。近年行われた散手や推手の競技では、套路や固定の招法が技撃や実戦での欠陥が明らかになった。散手競技では、双方が接触する前は太極や八卦を練習しているかが見て取れるが、一度接触すると、すぐにボクシングと摔跤になり、「戦いの中で拳法を忘れる」ことが起こる。ここから、ボクシングや摔跤が実戦から出ているため、套路が少ないことが理解できる。関連する推手の競技報告からも、普段の訓練技術が使えず、力で勝つことしかできないことが分かる。これは、日常の訓練が実戦から遠く離れていることを示している。

試力は站樁の空間的な延長であり、站樁で培った渾元力を、肢体が移動する状況下で均整に力を得られるか、自在に使用できるかを体験することである。訓練では力を用いず、動作は慢が良く、静中に動を求め、さらに微動の中で速動を求め、整体に注意し、「一動而不動」を目指す。試力は拳術訓練中で最も困難であり、最も重要な一歩である。王薌齋は「力は試すことによって知り、さらに知ることによってその用を得る」と言っている。試力で試す力には多くの名前があるが、力学の範囲を出ない。例えば、螺旋力、三角力、杠杆力、斜面、滑車、輪軸などである。意拳の訓練は現代科学に基づいている。社会で伝えられる意拳の空勁を発して人を打つ話は、意拳の誤解であり、意拳は現実的な拳術であり、神秘的なものではない。

「走歩」は摩擦歩とも呼ばれ、試力を組み合わせた歩法の訓練である。その原則は「上が動けば下が随い、下が動けば上が自ら導く」というものであり、前後、左右、進退転換の中で、身体の重心の平衡と全体の協調を保ち、随時発力するのに役立つ。

「発力」は拳術の有効な打撃力の源である。站樁、試力は発力のための条件を作り出すことを目的としており、異なる状況下で即座に勢に随って力を発揮することができるようにする。

「推手」「散手」は意拳の技術訓練の二つの形式である。推手は散手の不足を補うものであり、試力や歩行の具体化である。推手訓練では、双方の肢体が接触した際に相手の虚実、強弱、力量の方向を良く察知し、相手を牽制し、有効な打撃を加えることが重要である。意拳の推手は実戦を組み込んで行われる。実践で掌握したものだけが真に役立つ技術であり、相手がどうするか想像してそれに応じることは、一方的な願望に過ぎない。

散手は拳術訓練の総合であり、拳術の訓練成果を直接検証する総合的な表現である。本来の意味では、いかなる条件も付けない素手での格闘である。

意拳は現在までに、一つの完全な体系を形成し、全国各地で広く流行し、また海外の一部の人々の注目も集めている。平凡でありながら独特なこの拳学に対して、ますます多くの人々が大きな興味を持ち始めている。テレビ局は何度も特集を組んで意拳練功方法を報道し、多くの省市の体育委員会科学研究機関が意拳を整理し研究するための専門機関を設立している。

拳術は科学であり、学術である。学術が革新と発展を欠けば、その生命力は限られる。意拳は他の拳法との切磋琢磨や交流を望み、武術界の繁栄と我が国の武術伝統の継承に実質的な努力をしていくことを願っている。