意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

王薌齋先生の著書『習拳一得』

通常よく言われるように、健康な身体があってこそ偉大な事業を成すことができる。つまり人の身体が健康で、生命が延びてこそ、あらゆる事業に従事できるのであり、そのため健康は非常に重要である。健康であるかどうかは、日頃の修養と運動が適切かどうかにある。即ち、運動が衛生に適っているかどうかであり、詳しく研究し、実際に検証する必要がある。いったいどのようにすれば正常な運動と言えるのか? ある種の運動を練習する前に、医学的方法に基づいて、心臓の能力、血圧の高低、脈拍と呼吸の回数、赤血球と白血球の数を検査し、しばらく練習した後に再び検査すれば、自然とこの運動が正常かどうかが分かる。いわゆる正常な運動とは、人体の自然な発達に適応した運動のことで、このような規律に適合した運動だけが、人体の健康を増進できる。

正しい運動は、全身の細胞と各種器官に高度な新陳代謝作用を起こさせる。呼吸と血液循環を促進し、体内の燃焼作用を増強する。言い換えれば、身体の内部を活動状態にするのである。そのため適切な運動は、細胞に一定の刺激を与えることができ、成長期の者にとっては成長を促進し体力を増強し、すでに成長した者にとってはその効能を維持し、それによって体力と健康を保つことができる。もし運動が不適切であれば、必然的に反対の結果を招く。運動が過激だったり不適切だったりすると、健康を損なうだけでなく、身体を害し、病気の誘因にもなる。

現在の一般的な運動では、筋肉が疲労する前に、心臓がすでに呼吸困難により急性の心臓拡張を呈し、そのため運動を止めざるを得なくなっており、心臓を休ませることで、呼吸の困難を減らし、正常な状態に戻している。

中国の拳学は、これとは全く逆の方法で身体を鍛錬するもので、この運動は筋肉気血の運動であり、さらに具体的な細胞の運動と言える。運動の中で、全身のあらゆる細胞器官を同時に平均的に発達させることを原則とし、たとえ運動時に全身の筋肉がすでに疲労に耐えられない状態になっても、心臓の拍動は乱れず、呼吸も困難にならず、逆に運動後は運動前よりも呼吸が楽で快適だと感じられる。個人の筋肉と心臓の負担範囲内の能力で、個体の平均的な、徐々の発達成長を求め、年齢や性別を問わず、健康を維持し体力を増強する目的を達成し、さらに如何なる型もないため、運動時に脳神経が刺激を受けず、緊張せず、回復できるようになる点も、一般の運動とは異なる。

站樁の方法は立ったまま不動であるだけのようだが、実は内部の筋肉細胞がすでに働き始めており、完全に身体内部の筋肉細胞の発達と血液循環の適切さを求める。つまり、身体内部が活動状態になるのであり、外形の変動や転移を探求するのではなく、身体の各器官を平均的に発達させ、心臓拡大後の悪影響を減らす。拳学の運動は、大動は小動に及ばず、小動は不動に及ばず、不動の動こそが生き生きとして絶え間ない動だと知るべきである。

この運動は中華民族独自の特殊な学術と言えるが、一般の人々に注目されたことはなく、同時に一般の人が主観的に単純に理解できるものでもない。主観的に非常に単純な姿勢で立ったまま、全く動かないのにどうして力が身につき、どうして身体を鍛えられるのか? こう考えるのは、根本的に認識不足である。実際にはこのように立ったまま動かないだけで、力をとても速く増強できるだけでなく、医学的に治療できない多くの慢性疾患も治すことができ、治療医学予防医学において相当の価値があり、最も生理に適った運動方法なのである。

一般の運動については、激しすぎて身体を損なうものもあれば、偏りすぎて局部的な発達を促すものもある。そのため生理的に欠陥のある人は、運動をしなくても日常生活の中で自然と回復することができるが、運動をすると却って害を受けて病気が深刻になり、命を縮めることさえある。著名なスポーツ選手や優秀な成績を収めた若者が、学術の研究や授業で後れを取ることが多いのを見かけるが、これらはいずれも不適切な運動によって起こったさまざまな異常な現象である。過去の拳術の名家や古参者にも、生理に反して頑張りすぎ、老年で下半身麻痺になった者がいるが、これらはいずれも運動生理に反しているからである。学術研究は決まりきった規則に従うことを重んじるべきではなく、欠陥を抱えたまま守ることを嫌うべきで、体得と創造に重きを置くべきだが、原則と事実に基づいて絶え間なく創造を求めなければならず、極めて切実でなければならない。そのため良好な運動は具体的な聡明さを発揮でき、読書が知識を増やし実用に供することができるのと同じ理屈で、そのため運動はどんな場合でも過激であってはならない。現在の運動をさらに詳しく分析すると、青年を対象としたものばかりで、40歳以降の壮年や老年を無視している。実際には40歳以降の人こそ学識が十分で経験が豊富で、国家社会で重要な任務を担うことができる。こうした人々の適切な運動を無視することは、彼らの健康を無視することであり、国家にとって極めて大きな損失である。運動の原理から言えば、静、敬、虚、切は運動の要訣であり、同時に浩然の精神でそれを培う必要がある。例えば運動時に息を止めてはならず、心臓の拍動を乱してはならず、横隔膜を少しでも緊張させてはならないが、これらはいずれも常識豊かな人でなければ体得しにくい。60歳以上の人が技撃を深く学ぶのはやや難しいが、身心の健康を求めるのは実は難しくない。

運動を学ぶ目的は大きく分けて三つある。一つは衛生を求めて身体を健康にすること、二つ目は自衛を説くこと、三つ目は理趣を尋ねることである。

衛生を求めて身体を健康にするのが最も容易である。快適、自然、軽松、無力で、全身が水中や空気中で睡眠しているような感覚になれば大方成功である。もし形式に拘り、別のことを意図すれば、むやみに神経を乱して時間を浪費するだけで、さらに激しくやろうとすれば、結局は害を被って健康と生命に影響する。運動の結果、身体が健康になれば、さらに自衛を説くことになる。いわゆる自衛とは、もし不測の事態に遭遇して外敵に侵されたときに、一拳半足ですぐに群衆を圧倒できることを期待するものだ。純熟して神化の境地に達すれば、思いもよらず言葉でも表現しがたい妙がある。

しかし自衛と衛生には切り離せない関係がある。まず身体が健康で、身のこなしが敏捷で、力を人を越え、方法が巧妙でなければ、思うがままにはできない。しかし力を増したければ、力を用いてはならない。力を用いれば却って力を増強する望みがなくなる。身のこなしの敏捷さと動作の迅速さを求めるなら、鍛錬時は不動が最も良い。もし退屈で味気なく感じたり、疲れて支えきれなくなったりしたら、少し動いても構わないが、動くときには止まらざるを得ず動き、止まるときには動かざるを得ず止まる意があることを知るべきである。つまり動く原因だけがあり、動く結果があってはならない。精神的意義は深くなければならず、形式的にやる必要はない。形式的にやれば、いわゆる「有形は力を散じ、無形は神を集める」であり、破体すれば力は散じる。そのためゆっくりなほど良く、こうした方向性でこそ徐々に四肢百骸のあらゆる細胞がどのように働くかを体得でき、体認が漠然と過ぎ去ることがなくなる。これが運動を学ぶ最も単純な条件で、もし速さや美しさを求めて敏捷さを示そうとすれば、何の得るところもないどころか、根本的に希望を消滅させてしまう。

そのほか敵を制する巧妙な方法については、如何なる方法も許されない。もし人造な方法が混ざれば、無限に変化する本能の妙用をすべて失ってしまう。

この運動は極めて単純で、一目瞭然であり、収穫も極めて速い。ただ脳力を用いず、気力を用いず、単独で時間を浪費せず、生活の良い習慣を身に付ければ、効果が現れて身心に益するが、もし派手なことをしたり、強そうに見せたりしようとすれば、結局何も成し遂げることはできない。

この運動は単純だが、極めて聡明な人ほど学ぶほど難しいと感じ、一生涯行い、苦心して鍛錬しても是非の区別がつかない者もいる。宇宙の中では平常こそ非常で、平常を捨てて非常を学べば、邪道に入るのと変わらないことを知るべきである。

この運動の趣味は無窮で、千頭万緒一時には話し尽くせないが、一つ二つの原理を略述し、同好の士の参考に供したい。

動静、快慢、松緊、進退、反側、縦横、高低、争斂、遒放、鼓蕩、開合、伸縮、抑揚、提頓、吞吐、陰陽、斜正、長短、大小、剛柔など、いずれも矛盾しているが、これらの矛盾は参互錯綜している。円融の円融に至っても、また元に戻って初歩を学ぶ。これらは切り離すことができず、切り離せば永遠にこの運動の真諦を認識できない。

この運動では松は即ち緊であり、緊は即ち松であり、さらに松緊緊松は過ぎてはならない。実は即ち虚で、虚は即ち実で、実虚虚実は中庸を得なければならない。横竪撑抱は互いに根となり、打顧鑽閃は同時に用いる。

以上は力を求める初学者のために言ったもので、この規範に従わずに学習すれば、一生鍛錬しても分からず、この規範に従って学習すれば、一生学んでも尽きない。試力、運力、発力、蓄力、および有形無形のさまざまな假借の力については、言うと長くなるので、ここでは詳しく論じない。徐々に探求し、研鑽し、深く学び、力を尽くして追求しなければ得難いが、実は一度手に取れば平凡で珍しくなく、非常に易しいと感じる。なぜならこれは平易で親しみやすく、一法不立、無法不備で、虚霊にして守黙で万物に応ずる運動だからだ。これを推し広めれば、まもなく触類旁通できる。

拳学の一道は、一拳一脚を拳と言うのではなく、三つ打って二つ携えるのを拳と言うのでもなく、さらに一式一式を拳と言うのでもない。拳拳服膺を拳と言うのである。

拳を習うのは主に衛生を重んじ、その次に自衛を説くためだ。拳を習えば薬が効かない多くの慢性疾患の患者をすぐにも健康を回復させ、労働者を労しながらも老衰を遅らせ、労働力を失った者に労働を回復させることができる。これこそが拳の価値であり、この運動は運動の休息、休息の運動と言える。

自衛は技撃の変化した姿で、技撃を学ぶのは社会人士が想像するようにこの手をこう使い、あの手をああ使うということではない。いわゆる技撃はそれほど複雑ではないが、想像するほど単純でもなく、まず修養を重んじ、それから身心の鍛錬、試力および発力に従って、段階的に学習しなければ、徐々に技撃の研究討論を進めることができず、でなければ結局是非の区別がつかないだろう。修養は先ず信条および四容八要から始める。信条は尊長、護幼、信義、仁愛、智勇、深厚、果断、忍耐である。四容は頭直、目正、神荘、声静である。八要は静、敬、虚、切、恭、慎、意、和で、このような重厚な基礎があって初めて、身心の鍛錬を語ることができる。鍛錬は站樁法を重んじ、同時に関節と筋肉の制御、および単双重の緩急の利用を研究する。単双重は両手両足の重量だけを指すのではなく、頭、手、身、足、肩、肘、膝、胯、および大小の関節、四肢百骸、わずかな点力でさえ、単双、松緊、虚実、軽重の別を含んでいる。撑三抱七、前四後六、顛倒して互いに用いるのは、簡単な筆墨では形容できないが、要するに、大抵は抽象から具体へと至らなければならず、これはただ目録を略述しただけである。

試力。力の名称は極めて繁多で、すべてを備えるのは難しい。けだし力は試して初めて知ることができ、知って初めてその用を得ることができる。如何なる力の練習でも、形は破体せず、意には象がなく、力は尖出してはならない。力に方向があれば、それは尖出であり、有窮で、局部で、片面的なものとなり、動作は硬直して力の効能を低下させ、さらに断続的で散漫で、どこへ向かうのか分からなくなり、技は牛の闘いのようになって、死んだように硬直する道に向かう。試力は假想から行わなければならない。假想は無形で、精神的で、永遠に存在し、どこへ行っても揺らぐことがない。拳学のこの学問は、すべて空虚の中から得るべきで、有形なら力が散り、無形なら神が集まる。精神意思は実に満ちていて、形体の類似を求めてはならない。

発力。この力の効果を発揮するには、基本的な素養が必要で、各種の力学の知識を得てから、大気の力と呼応しなければならない。大気と呼応できてこそ、波の松緊を利用できる。発力は打ち出すか打ち出さないか、当たるか当たらないかを重視するのではなく、自分自身の発動する力が、前後左右上下の平衡が取れているかどうか、具体的な螺旋状の錯綜した力と、どこへ行っても不浪の力があるかどうか、軽松、正確、慢中快の惰性力があるかどうか、本能的に発動し、期せずして然り、知らずして至る力があるかどうかを見なければならない。以上の条件があって初めて、拳を学ぶ希望が持てる。しかし、学ぶことができるかどうかは、別の問題である。