意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

武術(うーしゅう)1995年夏号

意拳の真実を于永年老師に聞く

  • 登場する先生
    • 于永年
    • 王建華
  • 内容
    • 意拳の真実を于永年老師に聞く
      • 意拳站樁功の秘密
      • 拳名を巡る論争
      • 中国拳学研究会の活動
      • 站樁の原理
      • 站樁における意念
      •  第二随意運動
    • 王建華氏インタビュー

印象に残った言葉

王老師との推手でこんなことを覚えている。通常、学生同志で推手を練習すれば腕の皮膚が擦れて痛いということはあったが、王老師が相手の場合はまるで釘が腕に当たっているように骨が痛かった。そして一度腕と腕が接触すると、こちらは推すことも退くこともできなくなった。王老師はまさに達人のレベルにあり、一度腕が接触すれば完全に相手をコントロールすることができたのだ(于永年)

(王先生がどのような教え方をしていたか)それこそ站樁だけだ! 習い始めた頃、一日同じ姿勢で立っているだけ。一ヶ月経っても新しいものは何も教わらなかった(于永年)

(站樁を続けていると)「脚が痛いがこのまま続けるかどうか」などとも考え始める。ここで站樁を止めてしまえば効果は得られない。しかし、站樁を維持するうちに思考が集中され、やがて抑制(入静)状態に至ることができる(于永年)

站樁における「形」の練習は工作筋(注:関節の角度を維持する筋肉)を鍛え、「意」の練習は休息筋(注:工作筋と同一箇所にありながら運動に関与しない筋肉)を鍛錬する。そこで站樁では形と意のバランスを取る必要がある。站樁における形とは言い換えれば関節の角度だ(于永年)

例えばこの人の站樁を見てどう思うかね? 精神(元気)がない、神気がない、勁もない。「形、意、力、気、神」の五つ、つまり形(姿勢)、意(意念)、力(勁)、気(呼吸)、神(神気、精神状態)のうち、精神状態が表面に顕れていないし指先を見ても勁が感じられない(于永年)

工作筋の鍛錬は体力を増強する。ここに意念の要素を付け加え、休息筋も鍛錬すれば智力を向上させる効果も期待できる。例えば試合をして勝つためには、力を出す強弱、その方向、力を使う点、その距離の長短などを瞬時に判断しなければならない。これらは把握できる能力を基礎として、一瞬の発力で相手を弾き飛ばすような技が可能となる(于永年)

(試力の動作を見せて)例えばこの動きを見ると、目の前の空間にまるで何かが存在し、それを推したり引いたりしているように見える。このような動きを体現できなければ「物を造る」ことはできない。「無形の物を造ることが出来なければだめだ」と王老師は言っていた(于永年)

このように身体内部における放鬆と緊張の訓練から、外界に存在するものへと意念の対象を変えてゆく。これは重要な段階であり、一つも疎かには出来ないが、王老師はこのような段階について詳しくは述べなかった(于永年)

澤井氏は王向齋老師と試合をした時、胸を軽く打たれると電撃が走ったように感じたと述べている。軽く打たれても電撃のように感じたものとは何か? それは站樁で培われた力、即ち全身の筋肉を瞬間的に統一することで発揮される高速の勁と下半身の力なのだ(于永年)

私は站樁において、ただリラックスと意念を強調するだけでなく、強い足腰を作ることも要求します。膝を曲げ腰を少し落とした站樁は、強い突きを打つための「蓄勁」状態でもあります。この状態は「上鬆下緊」、つまり上半身は放鬆し下半身はある程度緊張しながらも瞬時に反応できる状態です。例えば鞭は手元が堅く先端へゆくほど柔らかいため、力が効率的に先端まで伝わる構造になっています。下半身は強い突きを打つための土台であり、上半身は打拳が相手に接する瞬間に放鬆から緊張へ転化します。従って練習者は「蓄勁と発力をいかに行うか」を常に考えながら站樁を行い、最適な身体を作る必要があります(王建華)