問:「体整如鋳、身如鉛灌、毛髪如起、筋肉若一」とは何でしょう?
答:整を求めることは練拳の重要な目標の一つである。どの程度まで整えるのか? 「体整如鋳」は整を求める過程での一種の生理反応である。人が整えられるかどうかは、関節が鍵となる。具体的に言えば、関節の感覚である。正しい站樁により、徐々に各部位の関節に力があることを感じ、練習前より明らかに力があると感じるようになる。これが体整如鋳の始まりの段階である。功夫が深まるにつれ、関節が鉄のように感じられ、非常に堅く、刀のようで、また尖った、棘のある鉄器のように感じられる。さらに功夫が深まると、関節が固定されたように感じられ、力を使わないと動かず、形を変えるには力を使わねばならず、力を使わないとまた止まってしまう。王薌齋先生は言った。「一動けば全身の関節が球のように転がる」。この転動には摩擦力があり、力を使わないと転がらない。摩擦力が大きいほど功夫が深い。王老先生は一動すれば全身の関節がきしむ音を感じ取れたという。
もちろん後世の人は誰もこのような功夫に達していない。ただの目標と言えるだろう。これらは全て体整如鋳の感覚であり、想像ではなく、功夫が一定の程度に達すると自然に現れる感覚である。「身如鉛灌」とは、身体内部が骨格に沿って鉄の骨組みがあるように感じられ、身体内部に嵌め込まれ、非常に硬く、弾力性がある。あるいは強度のある鉄の骨組みの外側に綿の層が包まれているような、外柔内剛の感覚である。「毛髪如起」とは、功夫が一定の程度に達すると、毛髪が逆立つように感じられることである。「体整如鋳、身如鉛灌」は全て力が三節を透すことを言い、「毛髪如起」は気が四肢末端に灌ぐことを言う。四肢末端で最も難しいのは血の末端、即ち毛髪である。だから毛髪が逆立つように感じられるということは、四肢末端に全て至ったということを示す。
「筋肉若一」については前に説明したので、ここでは省略する。動と静が互いを為すことを指す。
問:発力をどのように練習すればよいでしょうか? どのように発力すれば正しいのでしょうか?
答:まず指摘すべきは、大成拳で言う力と一般的な体育運動で言う力は二種類の力であり、同じ概念ではないということだ。大成拳で言う力は虚無の中から求められる。例えば、站樁の時、体外には実際何もないのに、站樁により体外に至る所に阻力があるように感じる。この状況下で私は必然的に「阻力」と対抗しなければならず、この「阻力」と対抗して生じる力が大成拳で言う力である。この種の力は対抗の中で相手の横竪力の転換の中から相手の無力な所を見出すことができる。だから大成拳の力は「無力の中に有力を求め」、「有力の中に無力を求める」と言える。この種の力は非常に奇妙で、その妙は言い表せることができない。
発力について言えば、まず私が言ったこの種の力を備えていなければならない。この種の力を備えていなければ、発力を論じることはできない。もし無理に発力しようとしても、発した力は大成拳で言う発力ではない。薌齋老先生は生前こう言っていた。「力があってこそ発力できる。力がないのに何を発するのか」。
大成拳の練習過程では発力しない方が良いが、正しい練習を通じて、力を発することができる状態にしなければならない。薌齋先生は言った。「発することができるが発しない」。自分の力を長期的に発することができるが発しない状態にし、長い間にわたって対抗の中で自然力を発することができるようにする。自然力は自身の争力から発せられるもので、阻力に遇えば自然に力を発するのが大成拳の求める発力である。「形有り意有るは皆偽であり、無心を見出すこと法こそが真である」、先人の言葉をよく吟味すべきである。
問:大成拳を練習する過程で呼吸をどのように練習すべきでしょう?
答:大成拳を練習する過程では呼吸を自然にすることが求められる。どの段階の練習であっても、呼吸は常に自然な状態にある。人為的に呼吸を調節してはいけない。もちろん、功夫が深まるにつれ、呼吸は徐々に均、細、深、長になり、最終的に腹式呼吸になる。これは練功が正しい自然な結果である。大成拳の練習は人の呼吸方式を変えることができるが、それは自然呼吸の状態で変化するのである。正しい站樁、試力、搭手の練習は、全て自然呼吸の状態で行われる。松緊の段階、得力の段階、用力の段階に関わらず、呼吸は常に自然である。
ある人は人為的に、直接的に呼吸を練習しなければ正しくないと考えているが、実はそうではない。大成拳が人の呼吸方式を変えるのは、練習者が自然呼吸の状態で行うのであり、松緊、伸筋、得力などの手段を練習することで、人の呼吸を徐々に均、細、深、長にし、腹式呼吸に達するのである。どのように練習しても、どのように力を使っても、どんなに痛く、どんなに疲れても、内部の生理がどのように変化しても、呼吸は常に自然な状態にあり、しかも練習すればするほど均、細、深、長になる。これこそが最も難しいことである。
大成拳が人の呼吸方式を変える原理は伸筋によって人体内部の生理を変え、人が大量の酸素を必要とするようにし、人が普通の呼吸方式では自身の要求を満たせなくなった時、人体は自動的に腹式呼吸の方式を採用して呼吸し、自身の酸素の需要を満たすのである。
問:なぜ大成拳は常に「肩撑肘横」を求めるのに、形意、太極などの拳は「松肩墜肘」を求めるのでしょうか? もし「肩撑肘横」なら、技撃時に相手が肘を托したらどうするのでしょうか?
答:まず明確にすべきは、肩肘横でも、松肩墜肘でも、技撃での肘を托すこととは別物だということだ。肩撑肘横と松肩墜肘は功夫を練ることを言っており、功夫がある程度に達した時の一種の生理反応である。肘を托すのは技撃中に遭遇する可能性のある一つの状況であり、これは別の話で、混同してはいけない。
肩撑肘横と松肩墜肘の違いは松肩墜肘は功夫がある程度に達した後の肩と肘の一つの状態であり、肩肘横に比べると一つの結果である。一方、肩撑肘横は結果を追求する必然的な過程である。なぜ練功時に肩肘横を強調するのか? 肩肘の目的は肩、肘の下の筋を引っ張ることにある。これら数本の筋は手の五指に直接つながっている。肩肘横はこれらの筋を最も長い状態にする。もし肩肘横の状態で肩肘が松くなれば、これらの筋が引っ張られた長さがあらゆる動作に対応できるほど十分であることを示している。どんな動作も肩撑肘横の時に必要な筋の長さより長くはない。大成拳では身体各部の要求は全てこの原理である。一旦この動作で筋を十分に長く引っ張ることができれば、他のどんな動作をしても障害がなく、全て力が得られる。
もし肩撑肘横の状態で筋が十分に長く引っ張られ、余裕があれば松となる。どんな動作をしても松肩墜肘ができる。もしそうでなければ、たとえいくつかの動作で肩肘を松にできても、多くの動作では松肩墜肘はできないだろう。薌齋先生がなぜ「肩撑肘横」を提唱したのか? それは彼が松肩墜肘を徹底的に研究したからだ。肩撑肘横は松肩墜肘の必然の道なのである。各家の拳譜は全て松肩肘について述べているが、過程については述べていない。薌齋先生が肩撑肘横と言ったのは、過程と結果を述べているのだ。過程があれば必然的に結果がある。もちろん肩肘も最終的な過程ではなく、その下にもまだ過程がある。松肩墜肘も最終的な結果ではなく、その下にもまだ結果がある。
拳を練習するには一を聞いて三を知る必要がある。肩撑肘横について述べることで、実際には大成拳の桩法の原理を全て述べたことになる。大成拳の站樁の姿勢に要求を加えたものは、人体が最も長い筋を必要とする状態なのである。一旦この状態で筋を十分に長く引っ張ることができれば、全身の各関節各部位が全て松となり、どんな動作をしても筋に障害がなく、逆に自争力を生み出し、「展、抗、横、抖、順、劈、楼、搬、把、撑」の力を生み出すことができる。筋が長く、順になれば気は四肢末端に貫き、気が全身に灌ぎ、陰陽が平衡し、病気を防ぎ治すことができる。技撃面では剛柔併済でき、力が途切れることがない。
肘を托すのは技撃時に起こりうる一つの状況であり、肩肘横は練功時に必ず直面する問題である。これは二つの問題だ。功夫があれば、技撃時にはあらゆる状況に対応できる。肘を托すことも含めてだ。功夫がなければ、肘を托すどころか、相手があなたの手を托しても対応できない。どこを托されても耐えられない。大成拳の技撃は功夫に頼る。功夫がよく練れていれば、どんな技撃の場面でも自在に対応できる。
問:大成拳を練習する時、どのように意念を放長く、放大するのでしょうか?
答:まず明確にすべきは、意念は練り出すものであり、正しい姿勢を長期間保つことで、意念は自然に現れる。誰であれ、正しく練習すれば、現れる意念はほぼ同じであり、違いは各人が意念を描写する言葉や文字が若干異なるだけである。意念そのものが長く、大きいものであり、もちろん人為的に誇張することもできる。もし意念が上述の方法で求められたものでなく、空想で作り出されたものならば、それは別物である。
問:站樁時にいつも動いてしまうのですが、站樁時に動いてもよいのでしょうか?
答:站樁時にいつも動くのは、筋に力がないことの表れである。一般人にとって、どれほど身体が強靭で、どれだけ体育訓練に参加していても、站樁をしたことがなければ、筋は鍛錬されない。站樁によってのみ筋に力をつけることができる。站樁時、人は静止状態にあり、静止時に筋に力があってこそ、真に動かないことができる。そうでなければ、微動せざるを得ない。そのため、人が糸筋一つ動かさずにいるのは難しく、站樁を通じて筋を鍛錬し、長い時間をかけて筋に力がつけば、動かなくなる。
站樁時の動きは站樁功の一過程である。功夫がなければ、動かないようにしても無理で、無意識に動いてしまう。站樁に慣れた者は站樁時に動かず、地面に釘を打ち付けたように動かない。このときにのみ、身体の外に物があり、阻力感があると体感でき、これを大気と呼応すると呼ぶ。もし站樁を何年も続けても安定せず、無意識に微動するのであれば、站樁が間違っていて、筋を鍛錬できていないことを示す。この時、理解者の指導を仰ぐべきである。初学者の站樁では、動くのは必然的現象で、前進過程であり、間違いとは言えない。数年後も同じなら間違いである。良い樁は動かず、糸筋一つ動かない樁でこそ意が出る。意念が現れて初めて内勁と呼べる。
問:站樁時に震えが出るのはなぜですか、正しいのでしょうか?
答:站樁時の震えも、力不足の表れである。震えは一般に站樁時間が長くなった時に現れる。震えの出現は力が足りなくなったことを示す。站樁時間が長くなってから震えが出るのと、短時間で震えが出るのとでは、筋力が異なることを示す。前者は後者より筋力が大きい。そのため、站樁時間が長くなってから震えが出るほど良く、筋力が強いことを示す。站樁時間が短くて震えが出るのは、筋力が弱すぎることを示す。功夫のある人は2時間站樁しても震えは出ない。
王薌齋は4時間も站樁でき、数年間毎日震えることなく、筋力が極めて強大であることを示した。站樁時に震えが出たら、体調が良く若い人は限界まで続けてよい。年配者、体力の弱い人、病気や障害のある人は、震えが出たら練習を中止し、休息後に再開するか、翌日に行うべきである。
李栄玉『走進王薌齋』大展出版社有限公司より