意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

月刊秘伝2014年4月号

澤井健一師に学んだ外国人古参門人

  • 登場する先生
    • ジャン・ルシュワー
    • 天野敏
    • 島田道男
  • 内容
    • ジャン・ルシュワー師インタビュー

印象に残った言葉

本国で気功をやっていたとき、気功というものは楽で、それほどハードなものではなかったのですが、澤井先生の指導は姿勢も厳格に規定されて、非常にキツイものでした。全然、想像とは違っていて、学ぶのに苦労しました(ジャン・ルシュワー)

私はサムライの武道を知りませんでした、その戦い方がどのようなものであったかを。昔のサムライは刀で戦うばかりではなく、時には組み討ちをし、取っ組み合って合戦を戦っていました。そうした戦いに非常に近いのが太気拳の練習なのではないか、と思うようになりました(ジャン・ルシュワー)

最初に訪ねた時、先生に「組手をやろう」と言われて、先生もよいお歳だし、自分は歳も若ければ体も大きいので「いいのかな?」と戸惑いました。最初は全然、信用できなかったのです。それで、向かい合ってハッと思ったのが、先生は全然リラックスしている。打っていっても、私の腕に軽く触れたと思ったら、もう返されてしまっていました(ジャン・ルシュワー)

多分、先生がいちばん違っていたのは、実際に戦争を体験されていて、動きの端々にそうしたリアルファイトがバックボーンとしてあるのではないか、と思いました。寝ていても、起きていても、いつでも”太気拳“であるというのか、生き方そのものが太気拳という感じがしました(ジャン・ルシュワー)

(澤井先生の動きは)まるで野生動物みたいで、すごく自由だったと思います。何もこだわりを持っていないような、自由な気持ちだったのだろうと想像します(ジャン・ルシュワー)

普通のマーシャルアーツというのは技を練習するものだと思いますが、太気拳は違いました。太気拳はまず”体“を作っていく。澤井先生に初めてお会いしたとき、「キミは私に会えてラッキーだ。太気拳は小手先の技ではなく、体の中から作れるものだからだ」と言われました(ジャン・ルシュワー)

以前、王薌齋先生の娘さんである王玉芳先生をフランスヘお招きした際、彼女が午前中を指導し、午後を私が教える機会があったのですが、そこで私が這いの練習を指導しているのを見て、王玉芳先生が「良い練習だ」とおっしゃって、王玉芳先生自身も太気拳や澤井先生を知っている、と語っていました。そのときが、彼女にとっても初めて中国以外の外国で指導された時だったと思います(ジャン・ルシュワー)

単に"格闘技"ということであれば、ただ格闘技に強くなるということでしかありませんが、それぞれの人間性、パーソナリティを育て、作り上げることで、それをもって生きていける。そのあたりが、太気拳と他の格闘技などとの違いだと思います(ジャン・ルシュワー)

姚承光先生談父親姚宗勲先生

姚師が言うには、姚老は磨難を経て、80年代初めに数年間学生を集めて訓練したが、ちょうど効果が出始めたところで早すぎる他界をとげてしまい、その偉大な志は果たせなかったという。姚師は宗勲先生の遺志を継承し、姚老が世を去ってから33年が経っても、初心を忘れず、意拳の伝承と研究にひたむきに努力を傾けてきた。かつて姚師に、人に教えるのはもっと柔軟であり、あまり苦しまないようにしたほうが良く、金もあり名もあるのに、と言う人がいた。しかし姚師は明確にこれを拒否し、そうでなければ先人と後人に申し訳ないと答えた。姚師は真摯に教え、すべての人を平等に扱い、意拳を熱心に学ぼうとする人全てに真伝を教えなければならないと言った。また、自身が意拳を57年間習練してきた中で、一生涯意拳への追求の思いが揺らいだことはないと語った。今の一部の人のように、少しの経験ややや功夫があれば満足し、それ以上進取しないのとは違うと希望を述べた。後人は信念を堅持し、他言に惑わされず、そうしてこそ成就できるのだと。

姚承光先生はその他の面でも語った。

1、自身と父親の教え方の違いについて。父親の教え方は王薌齋のそれとはかなり違っていた。そして今の自分の教え方も父親のそれとは大きく違う。父親は通常、学生に道理を説明した後は、学生に考え、練習し、体得させるのが普通だった。しかし自分は数十年の練功の心得を詳しく解説し、生徒一人一人の特性に合わせた指導を重視している。自分の数十年の体得を最短の時間で生徒に伝えたいと願っているのだ。

2、意拳に絶招はない。当初、王薌齋先生が朝に站樁をしていた時、郭老は先ず彼の足跡の湿り具合を点検し、湿りが足りなければ引き続き站樁させた。当時父が練習していた時は、足に履いた綿の靴までびしょ濡れになり、夜はそれらを火釜で乾かしていた。後に師兄弟が練習する時も、父の監督の下、夏は木陰で身に浴びた汗が地面に大きく湿った跡を残した。つまり意拳には絶招はなく、あったとしてもその絶招とは「強靱な意志力+科学的方法+自身の悟性と刻苦の程度」に要約できるだろう。そうでなければ、あらゆる「絶招」は邪説に過ぎない。自分は8歳の時に父が意拳を練習していた。15歳になってもかなり精進していた。1979年から1989年の10年間は非常に剛健に鍛錬した。もし父に何か絶招があったのなら、自分があれほど苦しむ必要もなかったはずだ。

3、父姚宗勲先生について。当時姚宗勲先生が意拳を習う際、基本功を学んだ最初の1年間は、毎朝干し飯と水を持って閑静な公主坟に行き、一人で練習していた。昼は干し飯と水で空腹を凌ぎ、そこで休憩を取った。しばしば一日中そうして過ごしていた。このような剛健な訓練の精神が、父に確かな基本功を打ち立てさせた。姚宗勲先生は「私に似る者は生きるが、形象が似る者は死ぬ」と言ったが、この言葉は学術の格言に値する。俗に「師古にして泥古に陥らず」とあるが、師の指導の下で正しい鍛錬を経た後は、単に他人を真似るのではなく、自身の風格を打ち立て、特色を形作らねばならない。

4、父は1940年代にはすでに王老の門下生の中でも指折りの実力者となり、数々の代師試合で全勝を収めていた。後に1960年代頃、ある人が父に当時の功夫が最高の域に達していたか尋ねた。すると父は笑って、当時は若く、相手の動きが遅く見えただけで、振り返れば当時は若く力強く、剛健に鍛錬し実戦経験を重ねていたが、意拳の理解はまだ十分ではなかったと言う。今では若い頃の勝利経験を否定しており、そういったものは現代の武道には適さない。否定し続け、新しいものを取り入れ続けることで、初めて進歩と発展があると。80年代になると、父の武道修養はかなり高い水準に達していたが、それでも広く書物を読み、練習を続け、西洋のスポーツ科学理論と方法を意拳に効果的に取り入れ、意拳の発展に大きく寄与した。

5、武道の過程では形式的には大同小異であるが、異なる段階では内実に大きな違いがある。1988年の香港での録画を見ると、当時は不完全で内実が足りないと感じた。今は50歲近くとなったが、動作も内実も以前より厳格で深遠になった。これは知識の蓄積と経験の豊富さが拳学に融け込んだ、本質的な変化の結果である。

6、拳術の力量鍛錬における重りについて。重りがいくら重くとも、目的は自身の力を鍛えることである。しかし実戦で発揮される力は、変化が極めて速く、極めて短時間のものだ。瞬間の変化を要求される。動作が大きくなれば相対的に遅くなる。先父の姚宗勲は「ある拳術は練習すれば力量が付くが、使えば力量がない」と言った。真剣勝負になれば、力任せに足を踏みならしたり、目を見開いたり、構えを作ったりしても、相手に攻撃の機会を与えるだけだ。だから実戦で本当に有効なのは、神経と肌肉が瞬間的な松緊転換なのである。例えボクサーの一撃に800ポンドの力が込められていたとしても、実戦の攻防の過程では、そんなに大きな力は発揮できない。ゆえに瞬間的で短時間の発力こそが、真に有効な力なのだ。一方、重りを使った鍛錬では、筋肉の硬直した力、死力しか付かず、拳術で重視される瞬間的な変化の力は付かない。

7、太極拳の大杆を振り動かす練習について。発力の仕方を重視しているが、振り動かす過程で大杆の振幅が大きくなり、そうすることで瞬発力を早く身に付けられると考えている。しかし真の瞬発力とは瞬間的で短く爆発的な力のことであり、動作の振幅が大きければ時間も長くなり、瞬発力とは言えなくなる。ここで誰が良くて誰が悪いと言うつもりはない。鍵となるのは実際に相手と搭手した時の具体的な状況であり、これは原則の問題なのである。今の太極拳の中には、もはや太極拳らしい味わいがないものもある。練習過程で意念による支配がなく、完全に形体の動作だけになっている。実は、太極拳の「運力如抽絲」の動作は、意拳の試力練習と同じではないか。大きな動作の中で渾円力を求めようとしているが、微動の渾円樁の中から渾円力を求めるのと比べると、全く及ばない効果しかない。大きな動作が多く、繁雑な動作の連なりでは、渾円力を体感するのは難しい。一方、站桩は微動の中から力を求めるため、思考が集中しやすく、拳術の力を早く体得できるのである。

月刊秘伝2013年4月号

達人・姚宗勲の血脈姚承栄老師が語る

  • 登場する先生
    • 姚承栄
  • 内容
    • 姚家伝統意拳の哲理(後編)

印象に残った言葉

父の拳の特徴は実戦経験が豊富で、技術も完璧だった。技は大変緻密で正確、その威力は対戦相手が恐れをなすほどだったが、けして相手に怪我をさせることがないよう手加減をしていた。同時に、理論研究も突出していた(姚承栄)

父は王老の碁礎をもとに新しい練習法をとりいれた。その―つが砂袋だ。王老は砂袋について特にふれたことがなかった。父は砂袋を敵に見立て、打撃の際に発する爆発力、力の放鬆(リラックス)、さまざまな歩法などの鍛練に活用した(姚承栄)

また推手は従来、脚を止めた直立状態で行うことが多かった。しかし武術の発展の中で、推手にも動きが導入されるようになった。父もまた、移動しながら推手を行い、動きの中で独立感を培う練習法を行った(姚承栄)

散手についても新たな手法を取り入れた。父は多くの著名な武術家と接するなかで、彼らと対戦するには、単一な基本線上の攻撃だけでは足りないと考えた。左右斜めにも移動しながら、2本の腕がいつ何時どこからでも発拳、発力できるようでなくてはならない。そこで歩法の練習過程に、前後の中心線のほか、左右、螺旋などの動きを加えた(姚承栄)

さらに散手と推手を組み合わせたことは、父の拳の大きな発展だったといえるだろう。散手の過程で、相手につかまれたり、ひっぱられたりして、打拳を打ち出せないような状況では速やかに推手に移行する。また推手の過程で、相手との間合いがあいたらすぐさま散手にきりかえるというものである(姚承栄)

試合は体重別の正式なものではなかったので、大柄な体重80キロ以上の相手と対戦することもあった。そこで敏捷さを鍛え、打撃の際もいかにすばやく最少の動きで最大の効果を得られるかを考えた。これが私の拳術の特徴となっている(姚承栄)

(姚宗勲に習っていた時代は)理論はある程度理解していても、具体的に深められていなかった。それが、自分自身の鍛練とともに人に教えることで、姑椿で模索する勁とはいかなるものか、どのような間架(構え)であるべきか、いかなる訓練によって全体の力を模索したらよいか、こうした非常に細かいことを追求してゆくこととなったと思う(姚承栄)

例えばある者は力が強く、推手は静止した状態でこそ力を発揮できると考えている。だがその者はすばやく動きまわる者を相手にすると全く太刀打ちできなくなってしまう。ではこの者はどうすべきか。またある者は対戦相手との距離がひらいた状態で大きな動きをもってすれば力を発揮できる。しかし相手が瞬時に間合いを詰めれば、大きな動きは間に合わないし、そのような空間もない。その場合、この者はどうすべきか。これは自分自身のレベルを上げる上でも、大変研究に値するものである(姚承栄)

一番よいのは最少の力で最大の効果を得ることだ。それは技術が成熟したということであり、また弱い者は強く、遅いものは速く、「鬆緊」の最もふさわしい状態を得られるようになったということである(姚承栄)

姚承光先生の著書『意拳推手 独特的搏殺技術:兼駁意拳推手無用論的観点』

意拳の推手技術は非常に独創的で独特であり、完全に実戦に立脚している。

意拳の宗師である姚宗勋先生はかつて、推手は散手の不足を補うものだと述べた。意拳の推手は散手への過渡期であり、推手は散手に奉仕するものであり、推手の水準の高低は散手の水準に直接的に影響する。ある意味では、推手は練習者の站樁、試力、歩法、発力などの各基本功が確実であるかどうかを試す試金石である。基本功が確実でない、あるいは意拳の真髄を得ていない人は、推手を理解することはできず、ましてや散手における推手の奇妙な運用を知ることはできない。

意拳の推手訓練の中に掴み合ったり(=撕扯)、角を突き合せる(=頂牛)現象があるのを見て、一面的に推手の練習は押し合わず(=不頂)、抵抗しない(=不抗)ものだと考える人がいる。実はこれは彼らの一方的な考えに過ぎず、実際の意味での推手訓練は、押す(=過頂)、押さない(=不頂)、変化が速いという過程を経なければならず、この初級から中級、さらに上級への変化の過程は、各種の確実な基本功がなければ、厳しい訓練を経なければ得ることはできない。推手で「押し合わず、抵抗しない」ことを想像している人は、実際には推手に対する誤解であり、意拳を理解していないことによるもので、机上の空論である。

姚宗勲先生は、学生たちに基本功と推手の関係について語る際、彼が王薌齋先生の門下に入ったばかりの頃、師兄の楊徳茂先生と推手をした情景を思い出した。楊先生は意拳の推手技術を利用して、姚先生も彼をどうすることもできなかった。その後、姚先生はさらに厳しく練功し、毎日の練功時間は10時間以上に及び、半年の厳しい練習を経て、姚先生は推手において大きな進歩を遂げた。これによって、確実で深い基本功が推手の高い水準に到達するための保証であることがわかる。高い水準の推手は、歩法が機敏で、手法が千変万化で、身法が颯爽としており、動作が極めて小さい状態で発勁が素早く(=脆)、相手を控制したり、相手の重心を破壊、控制したり、打撃したりと、思いのままにできるものでなければならない。もし2人の高手が競い合う場合、勁力の精妙なところは絡み合い、歯車のかみ合わせのようになり、一方が少しでも不注意だと、致命的な打撃を受けることになる。

ある人は思わず、推手がそんなに厄介なものなら、一体どうやって散手に応用するのだろうと疑問に思う。格闘の際、双方の手足が接触した時、日頃の推手で鍛えた功夫を使って、相手の手足に接触した零点零数秒の間に相手を控制し、その重心を崩し、拳や掌、体の各部位で相手に重傷を負わせ、素早く相手の戦闘力を解決するのである。意拳がボクシングやムエタイなどと異なる点は、その各基本功が精神を重んじ、意感を重んじ、全身各部の訓練を重んじていることにある。

意拳は掌、腕、頭、肩、肘、腰、膝など全身各部位で発力することができ、つまり全身どこもばねのようになっている。そしてこれは、我々が相手に近づいて打撃を与える必要があり、これが意拳独特の格闘風格「短兵相接」を形成しているのである。推手の訓練は、散手の対抗の中で一瞬のうちに戦いを決着させるためのものであり、意拳の推手は格闘で勝利するための大きな秘訣だと言えるだろう。王薌齋先生は1930年代に世界ボクシングチャンピオンのイングと武術を競った際、推手を使用し、イングの前腕に接触した瞬間に素早く相手を控制し、すぐに発力してイングを投げ出した。また、姚宗勲先生は1940年代にある武師と武術を競った際、推手技術を使って相手を控制し、すぐに一撃の栽拳であっさりと戦いを決着させた。上記の2つの戦例は、格闘における推手の役割を生き生きと力強く示している。もちろん、実戦で推手技術を自在に使いこなすためには、確実な技術と基本功の練習が必要不可欠である。規範的で厳しい訓練を望まず、王、姚両宗師のような化境に入った功夫に到達することを妄想する者は、夢想家と変わりがない。意拳の推手技術は非常に独特で独創的であり、完全に実戦に立脚しており、王、姚両宗師は推散という格闘の利器に頼って、切磋比武の中で度々驚くべき戦績を収めてきた。

事実は雄弁に勝る。推手は無用だとか、推手は殴られるだけだと空しく叫ぶ者は、実は意拳を全く理解していないのだ。彼らは厳格な訓練を経ておらず、推手と散手の実戦対抗を経験したことがないので、正しい拳勁や推手における高速の松緊転換やその場その場での発力を理解し、習得することはできないのだ。本当の殺陣や実際の散手、推手の対抗を経験せず、ただ想像だけで、こうだああだと空理屈を言う人間なのだ。このような人間は、意拳の達人に出会うまでもなく、体が丈夫で喧嘩慣れしている街の不良にも敵わないだろう。

推手の意義と散手との関係を理解した後、我々は推手の訓練でその対抗性を体現しなければならない。あの二人で行う体操のような推手は、我々が断固として排除するものである。もちろん、この種の推手の対抗性は、完全に正しく系統的な訓練と確実な基本功の上に築かれるものである。練習の双方が基本功の打輪に熟達した後、技術面の訓練に入るべきで、偏、挂、旋、発と、双方は集中して相手の勁力を注意深く体感し、一旦隙を見つけたら、すぐに攻撃を行い、日頃学んだことを十分に発揮すべきである。練習を始めたばかりの頃は、体が比較的硬く、無意識に力で抵抗して角突き合いの状態になるが、功力が深まり、技術が向上するにつれて、拙力が次第に消え、相手の勁力を体感し、素早く反応できるようになり、次第に良い状態に入っていく。基本功と推手の訓練がある程度の水準に達した時、我々は推手の対抗性を強化することができ、対抗する双方が接触した瞬間に、打と発を結合させることができる。これは散手の範疇に関わることであり、これによって、高度な推手は散手であることがわかる。

意拳の推手の発展は、二つの形式に分けることができる。一つは防具なしの試合で、掌と腕だけで発力し、打撃は禁止される。もう一つは防具を着用して、推手の中で、接点の瞬間に発打を結合させ、纏の中に打を含め、散の中に纏を含めることができ、意拳の推手というこの独特の格闘技術を十分に発揮することができる。このようにすれば、交流を行い、技芸を向上させ、感情を深めるという目的を達成することができ、一石二鳥ではないだろうか。北京市武協意拳研究会は近年、多くの推手大会を開催し、非常に良い効果を上げ、意拳練習者の実戦水準を大いに向上させた。筆者は、意拳の推手は国内外に大いに推広すべきだと考えている。

以上は筆者の意拳推手に対するいくつかの意見に過ぎず、意拳の仲間と討論したいと思う。武術というものは、千を言い、万を語っても、やはり実力が第一である。理論がいくら高明でも、先生がいくら「名」があっても、功夫が自分の身に付かなければ無駄である。自分が名門の後継者だと口では言いながら、口を閉じれば一連の科学用語を並べ立てるが、実戦に参加する勇気がない人もいる。結局は「口先の名家」という「美称」を得るだけで、人々の嘲笑を買うだけである。筆者は長年の意拳の練習を通じて、実戦水準の高低こそが拳学水準の高低を判断する唯一の基準であることを理解した。多くの練習、多くの実践、少ない空談、これこそが我々意拳練習者が従うべき科学的で実践的な行動規範であり、意拳(大成拳)の仲間と共に励みたいと思う。

月刊秘伝2013年3月号

達人・姚宗勲の血脈姚承栄老師が語る

  • 登場する先生
    • 姚承栄
  • 内容
    • 姚家伝統意拳の哲理(前編)

印象に残った言葉

どうあるべきかを知っていればよいことで、それよりも重要なのは、内的な力をいかに模索するかという点にある(姚承栄)

腰を低くすれば、負荷が大きくなり、意念による勁(力)の模索が行いにくくなる。逆に膝をやや曲げるようにして立つことで自在な動きを得ることができる(姚承栄)

動きが緩くとも速くとも、さらには瞬時の速度であっても安定を得る、それが意拳で求められる『バランス』といえる(姚承栄)

第ーに意念を用いた動きを養う。第二に身体の各部分のつながりをつくり、全身と体外に生じる『矛盾争力』を養う。第三に『不動中求動(不動のなかに動きを求める)』のなかで、身体に生じる抵抗感を体感し、『意中力(意中の力)』すなわち『功力』を養う(姚承栄)

原理原則とは第一に、站樁、試力、歩法の原理を明確に語ることができるかという点だ。例えば、試力の過程で、内的運動形式とその要求のポイントは何かを語ることができるかどうか。聞かれてはっきり答えることができなければ、その点を強化する必要がある。第二に具体的な鍛練の方法、自らの動きや姿勢について、なぜそのように立つのか、なぜこの角度なのか、なぜそのように中心を移動させるのか、なぜ意念でコントロールするのか、なぜ大きく動いてはいけないのか等を語れるかということだ。第三に勁の模索の過程で、意念が強すぎるために力みすぎて、体が強張ってしまったり、意念が弱く緩みすぎておよそ無力の状態となり、動きの中で有効な変化を得られなかったりすることがしばしば生じる。この問題を解決するためには、やはり師について鍛練を進める必要がある。また長い鍛練を通じて、模索の際にどれほどのカが妥当か、『鬆緊』とはいかなる状態かを知らなければならない(姚承栄)

第ーに道理(理論、しくみ)を理解すること、第二に正確な練習方法を把握すること、第三に実戦の繰り返しの中で常に経験をつみ、検証し、修正し続け、自らを高めること、これが意拳の原理原則となる(姚承栄)

姚承光先生の著書『生命不息 奮斗不止:回憶跟父親姚宗勲先生強化訓練的日子』

1981年に、姚宗勲先生は北京市体委体育科研所と協力し、意拳の養生理念と精神仮借、意念誘導の原理原則を用いて、競技選手の競争成績と体力回復、競争中の精神的・心理的調整などの一連の現実的問題について、約三年間の探索と研究を行った。

体育科研所との協力期間中、姚先生は研究所周辺の訓練環境を借りて、多くの学生の中から、若く見込みがあり、相当の技術基礎があり、体格条件の良い学生を厳選し、意拳の技術と理論の中核となる隊伍を組織した。この意拳隊の主な構成員には、姚承光、姚承栄、崔瑞彬、劉普雷、武小南、高長友、張長征などがいた。

実は、姚宗勲先生は1960年代初頭から、条件が整えば、必ず強力な実力を備えた専門の意拳隊を育成し、国家が必要とするときには祖国に尽くしたいと夢見ていた。残念ながら、様々な要因により、姚先生はずっと自分の報国の大志を実現できなかった。

文革」期間中、姚先生は当時の批判と闘争の重点対象となり、1969年4月に昌平の牧馬荒山に追放された。服はぼろぼろで、腹を満たすことができず、生活は非常に苦しかったが、姚先生は私と弟の承栄に「貧しくとも志を堅持し、青雲の志を失うな」と常に教えていた。当時、農作業が忙しかろうと厳寒酷暑だろうと、毎朝4時に母と私、承栄がまだ眠っている時、父は暗闇で起きて練功した。1時間後、父は私と承栄を叩き起こした。父のやせ細った顔を見るたびに、私たち兄弟は心から恥ずかしく思った。父はすでに50代だったが、政治的差別、生活の苦しさ、精神的苦悩は、父の「青雲の志」を打ち砕くどころか、かえって父の意拳への愛着と事業への追求をかき立てた。

父の意拳事業への執着は、彼の命を超えていた。彼は私たち兄弟に、人は逆境の中にあっては、必ず意志を強く持ち、自分の人生の追求を決して動揺させてはならず、流されてはならず、意志を落としてはならないと、繰り返し教えた。いかなる時も、人は必ず自分の得意分野を持たなければならない。私が毎日このように労働と練拳をしているのは、あなたたちの手本となるためであり、人の命の存在価値と意義の具体的な体現であり、あなたたちが思想的にも行動的にも奮起することを願っているのだ。国の情勢は今後良くなるだろうが、今は朝夕を分かたず練功に励み、一芸を身につけなければ、将来祖国に尽くす機会はない!

当時、毎日の朝夕と農作業の後、父は私たち兄弟を連れて厳しく練功し、自ら私たちを引率して推手と散手の訓練を行ったことを覚えている(グローブがなく、古い綿帽子と麻袋の切れ端で包むしかなかった)。生活条件が極めて厳しい中で、春夏秋冬を問わず、毎日の厳しい練功は揺るがなかった。

父はよく感慨深く、彼が若い頃(1937年-1947年)に師兄弟たちと一緒に練功していた様子を思い出していた。今、当時の訓練環境があれば、優秀な意拳人材を育成し、意拳の発展は計り知れないものになるだろう。

「四人組」が粉砕された後、国の情勢は徐々に良くなってきた。姚先生は、国の繁栄が各方面の発展を牽引し、武術も国から重視されるようになると考えていた。1979年9月、姚宗勲先生は昌平の農村から北京に戻ったが、彼の心の中で最も切迫した関心事は、いかにして意拳を復興し発展させるかということだった。

同年10月、姚宗勲先生は居住地の朝15区小関地区で、意拳技術が比較的全面的な隊伍を組織し、系統的な育成を行った。この隊伍の主な構成員には、姚承光、姚承栄、崔瑞彬、劉普雷、武小南、白学政、蘆祥、周長江などがいた。彼らは、姚宗勲先生が定めた訓練方法に厳格に従い、1日に約7時間の強化合宿を行わなければならなかった。午前中は約2時間の技撃樁、1時間の各種の試力、1時間の拳法発力訓練と各種の功法発力の練習を行った。午後3時から6時までの3時間は、站樁、推手、サンドバッグ、散手の訓練で、祝日も休みはなかった。このような強化訓練は約2年間続いた。姚宗勲先生は当時、中国武術の発展と情勢がますます開放的になることを考慮し、現在の条件下で、善戦能力のある技術人材を育成しようとしていた。一旦国家が必要とすれば、ここから隊員を派遣して、各種の対外試合に参加させることができるようにするためである。

姚宗勲先生は、意拳の本質は実際と実用の角度から出発し、いかなる条件も付けない徒手格闘であると考えていた。良い拳術は、その実用性を体現すべきであり、ボクシング、ムエタイ総合格闘技、散打、摔跤などに対応しても、実用効果で妥協してはならないと考えていた。姚宗勲先生はかつて次のように述べた。1935年頃、薌師は故郷の河北省深県で、趙道新、卜思富、韓星樵、韓星恒などの一群の弟子からなる実戦技術隊を育成した。薌師の願いは、この技術隊を率いて世界を周り、意拳の科学性と実用性を検証することだった。しかし、1937年に日中戦争が勃発し、薌師の願いは実現できなかった。これは意拳発展史上の大きな心残りと言わざるを得ない。

1981年秋頃、姚宗勋先生は北京市体育委員会体育科学研究所と協力して、意拳と現代スポーツトレーニングの研究を始めた。そこで、小関地区の訓練人員の一部を体育科学研究所に抜擢し、同時に高長友、張長征などを補充した。毎週月曜、水曜、金曜の午後1時30分から5時30分まで、4時間の強化訓練を行った。この4時間の訓練内容には、伏虎樁、歩法、腿法、手靶、サンドバッグ打ち、推手、散手などがあった。散手では、4-6ラウンド(1ラウンド3分)の対戦を行い、対抗訓練終了後、さらに2500メートルを快速のランニング拳法、変速のランニング拳法の訓練があり、半日の訓練で、隊員たちの体重はそれぞれ2-4キロ減少した。その訓練強度の大きさは想像に難くない。

姚先生の合宿訓練要求は非常に厳しかった。(1)遅刻、早退、欠席は許されない。(2)訓練時の站樁、歩法、手の的、サンドバッグ、推手に対する要求は非常に厳しく、各功法の訓練において、時間、姿勢、力量、速度、精神仮借と意念の内涵に至るまで、完璧を求め、一切の妥協を許さなかった。

1984年夏のことを覚えている。私と師兄の崔瑞彬がサンドバッグ打ちの練習をしており、3分間打ってから1分間休憩するのだが、活歩変歩の三拳を一回とする高速連続打撃は、3分間で通常283-290回の間だった。私はすでに3セットの3分間を打ち終えており、体力は明らかに低下していた。その時、父が遠くから歩いてきて、私たち二人の後拳で顔を守る肩架が少し低くなっているのを見て、格別に怒り、地面から柳の枝を拾って、私の腕を何度か横殴りにし、「まだ直さないのか」と言った。その後、姚先生は大声で崔瑞彬をしかりつけた。その時、私たち二人は心の中で非常に恥ずかしく思った。私たち二人は、彼の病状がすでに重篤になっていることを明確に理解していた。今日、彼がこんなに怒ったのは、私たちが鉄でも金にならないことを恨んでいるのだ。彼は私たちが一日も早く成長することを切に願っていたのだ。師兄弟間の散手対抗訓練では、真剣勝負を主とし、師兄弟の情けは一切ないと要求された。二人の散手は、プロテクターを付けていても、実戦では鼻青々顔のアザだらけ、鼻血を出すのは日常茶飯事だった。しかし、姚先生は常に厳格な教育の精神で、みんなを励まし教育し、散手対抗では最後まで頑張り、頭脳を冷静に保ち、日頃鍛えた技術を発揮し、敵と共に滅びる精神を持たなければならないと、繰り返し強調した!

私はよく覚えている。ある時、姚先生が私たちに活歩推手の練習を指導していると、張師叔はそれを見て非常に驚き、こう尋ねた。「兄さん、彼らの推手はどうしてこんな風になったんだ。師父が昔教えたのは皆定歩推手で、これは発力に有利だが、今の彼らはみな活歩推手だ。これじゃあ勁をどう見つけて発力するんだ?」。姚先生はそれを聞いて笑って言った。「これは動きの中で勁を見つけることを要求するのであって、いわゆる動的平衡を確立することであり、これはより現代の格闘に有利なのだ。今日の実戦は試合台の上で行われ、ラウンド制だ。この1ラウンドの中で、両者は動いている。昔の武術家たちが切磋琢磨するように、高い功力を頼りに、両者が一搭手、一粘一摸して、相手を発出して倒せば勝利で、すぐに強弱がわかり、戦いが終わるようなものではない。だから、現代の格闘で競うのは技術、功力、知恵だけでなく、より霊活で持久力のある体力的要素が必要なのだ。私たちが活歩推手を行うのは、徐々に現代社会の発展の大きな趨勢に適応するためであり、そうしなければ社会に淘汰されてしまい、絶えず自分を完成させていくことができない。これこそが発展なのだ」。

1982年春頃、全国初の散手大会が北京で開催されようとしていた。約2年間の強化訓練の効果を検証するため、姚宗勋先生は訓練中の隊伍から姚承光、崔瑞彬、劉普雷、武小南などの選手を選抜し、北京各区の選抜大会に参加させる準備を行った。

1982年4月のある日の午前、北京市体育委員会のある訓練館には、多くの市体育委員会武術界の指導者や全国散手ルールを制定する北京体育学院の教授や専門家が集まり、まさに北京で開催される全国初の散手大会の競技規則を実施するために演習試合を開催した。当時、私は最初に出場した60キロ級の選手で、相手は名の知れた武術界の人物(後に武警の教官となる)だった。全てが正式な試合規則の要求通りに行われ、全身プロテクターを完備していた。審判の笛が鳴ると、相手は頻繁に足を上げて攻撃してきた。相手がちょうど足を上げて蹴ろうとしたその時、私は順歩で前に突進し、両拳で一気に発力して相手の腕に当て、相手をリングの外に押し出した。笛が鳴った後、両選手は再びリングの中央に戻った。相手はすぐにまた足を上げ、私の心窩を激しく蹴った。私はすぐに半歩後退し、相手が足を上げて蹴り空振りし、足がまだ着地していない一瞬のうちに、私は前に出て右拳一発を相手の左頬の下部に重く打ち込んだ。重い鈍い音が一発聞こえ、相手は倒れ、なんと6-7分間も気絶していた。その時、会場は静まり返り、救助要員の慌ただしい声だけが聞こえた。審判は3、4分待っても、まだ相手が試合に出られる可能性がないと見て、私をリングの中央に立たせ、右手を高く上げて絶対的な勝利を宣言した。この試合はわずか47秒で相手を気絶させ、意拳訓練の科学性と実用性を十分に示した。その後、私の師兄たちは北京各区の選抜大会にそれぞれ参加し、良い成績を収めた。私がリングの上で47秒で相手を気絶させたことで、当時散打のルールを制定していた専門家たちは非常に衝撃を受け、姚承光の拳は人の命を奪いかねないと考え、すぐに全国初の散打大会の規則の中で、頭部への強打を禁止すると規定した。そのため、私は全国散手大会に参加する良い機会を失った。私は全国チャンピオンの縁がなく、これは私の一生の心残りだ。今から考えると、これは意拳の不幸、中国武術の不幸と言わざるを得ない。後に父は私にこう言った。試合は実力を検証する一つの手段に過ぎない。私たちがこの試合に参加しなかったからと言って、私たちの実力が彼らに劣ると言えるだろうか。だから、試合をあまり重視してはいけない。成績はその時の実力を示すだけだ。武術で成果を上げるには、最も肝心なのは地道に訓練し、自分の実力を絶えず高めることだ。覚えておいてほしい。意拳は永遠に実力で語るものなのだ。全国大会の後、私たち師兄弟はまた狂ったように訓練に没頭した。

姚先生はそういう人だった。彼は名誉や利益をすべて軽んじ、実事求是、孜孜として追求したのは彼の意拳事業だけだった。姚先生は生涯を通じて意拳の発展を研究し、開拓し、困難を恐れず、革新に勇敢で、決して満足することがなかった。

姚先生が晩年に北京体育委員会科学研究所と協力し、意拳強化訓練を組織したのは、実質的には自分の生きている間に、真の意拳格闘チームを組織し育成しようとしたからだ。本当の才能と実力を持ち、生涯をかけて意拳事業に私心なく尽くす後継者を育成し、中国意拳の伝統的格闘技法と現代のリング実戦格闘の特徴を結びつけ、伝統的技法を効果的に現代格闘に応用していこうとしたのだ。今、私たちが振り返って姚先生を見直してみると、伝統武術家としての彼が当時、このような先見の明を持ち、中国伝統武術の発展のために開拓的な研究と探求を行ったことは、まさに武術事業の開拓者であり模範だったと言える。

当時、姚先生がよく強調していた言葉は、「私たちには明日はない。今日しかない。全身全霊を訓練に打ち込まなければならない。今はもう朝夕を争う時だ」ということだった。

多年の宿願を実現するために、姚先生は何事も惜しまず、健康を犠牲にすることさえ厭わず、心血を注ぎ、全力を尽くした。ついに1984年秋、過労から病に倒れた。病床にあっても、姚先生は私と弟の承栄、師兄弟たちに忘れずに言い残した。「君たちは必ず訓練を続けなさい。私のために時間を無駄にしてはいけない。私ももう長くないが、君たちにはまだ重い責任と長い道のりがある。君たち師兄弟は今後、心を一つにして団結し、意拳事業を発揚し、海外に向けて、世界に恩恵をもたらさなければならない」。当時、病状はすでに非常に重かったが、それでも彼は病痛をこらえて意拳の書稿を整理していた。彼は非常に残念そうにこう言った。「自分はこの一生で大量の意拳理論と実践経験を積んできたが、これは短時間で一冊の本を書いてその拳学の内容を表現できるようなものではない。今、身体の病気のせいで、少しずつ書くことができない。もし数年の時間があれば、意拳全体の理論的様相と豊富な実践の具体的経験を代表するものを書くことができ、もっと系統的で完璧なものを書くことができるだろう」。しかし、彼にはもう時間がなかった。ついにある日、父は壁に寄りかかって2分間の養生樁を立った後、「疲れすぎた。少し休みたい」と言った。それ以来、もう二度と立ち上がることはなかった。父は生前、『意拳』一書とVCD音像資料1-4巻を残しただけだが、これらの資料は現代拳学資料の典範であり、拳学の代表作である。父の姚宗勋先生の師弟である李文濤先生は、意拳の本の序文にこう書いている。「宗勲の遺著は、彼の学んだことのほんの二、三に過ぎず、彼の胸中のものをすべて尽くしたわけではない。もしその奥深さを知ろうとするなら、一を挙げて三を返すべきだ」。

今年は父の生誕94周年にあたる。父が私たちのもとを去ってすでに26年になるが、父の教えは常に心に留めている。長年にわたって多くの師兄弟たちは姚先生の遺志を受け継ぎ、意拳普及の最前線を駆け回ってきた。国の政策の正しい指導の下、父の拳学精神に励まされ、意拳(大成拳)の同門や師兄弟たちの共同の努力によって、意拳は必ず発揚され、国境を越え、世界に向かって行くことができると信じている。

月刊秘伝2010年7月号

太気の組手に見えるもの

  • 登場する先生
    • 佐藤聖
    • 島田道男
    • 天野敏
    • 鹿志村英雄
  • 内容

印象に残った言葉

禅を組むんだって気持ちが良いで組むなかにも神経のレベルに違いがある。気持ちが良いで終わりというのを否定はしないけど、武術と名乗るんだったら違う心構えも必要。それだったら太気拳でなくてもいい、他に行けば良いんですよ(島田道男)

立禅の"水の中"というのは、澤井先生や王向齋先生も使っていて"緩める"という感覚なんですよ。力を抜くのとは違う。気を変えて潤滑する状態を作る。口のなかでも安易に「舌が上顎に触れるか触れないか」じゃなくてそこには気の流れがあるわけで、その為の説明なんだけど勘違いをしている人が多い(島田道男)

心が膝に、腰に、手に、全部にある状態で組手をしなければ駄目。力を抜いて自分の重さを全部感じて動きに乗せる。もちろんただ力を抜くのではなく、そこにはコントロールが出来てなければ出来ない。そこに入らないと無理ですよ(島田道男)

八光流柔術姉川勝義師範は月刊「武道タイムス」昭和四十年十二月号に、戦後の昭和十二年、澤井先生にお会いし見聞されたことを掲載されています。それによれば澤井先生は王先生との立ち合いで、何度もゴム毬のように高く飛ばされたそうです。そして、「第一の秘蔵弟子(後継者)と最高奥伝としての相手をボールのように高く投げ上げる業を稽古しましたが、残念ながら遂に習得できませんでした」と書かれています。この後継者とは、恐らく王向斎より眺継郷と名前を頂いた挑宗勲先生のことでしょう(佐藤聖二)

姚宗勲先生系の意拳では、攻撃技を浸透力に重きをおく「打(或いは撃、打撃ともいう)」と、移動力に重きをおく「発(或いは放、発放という)」の相対する二つの方法を明確にしています。私は今迄に多くの系統の意拳に接してきましたが、このように相手にほとんど浸透力を与えず、つまり打たれた人間も、衝撃を感じずに気がつけば壁や木などに激突される「発」をおこなう意拳は姚先生系以外の系統では見たことがありません。恐らくこのような練習方法は澤井先生と別れた後、姚先生が研究し纏められたものなのでしょう(佐藤聖二)

力が入りすぎてもうちょっと手が「ドロッ」としていれば良いんだけど(鹿志村英雄)

手を挙げた時に天地人と太気では言うんだけど、人の部分にバリアというか磁場が出来て、そこに何か入ってきたら自動的に磁石のように手が吸い付くんですよ、うわっと手が自然に雷が落ちるように反応する。だから私はいつも「雷雲を作りなさい」と言っています(鹿志村英雄)

固体から液体になって液体から気体になって空間に溶け込む。そうすればいつでも足も、手も、心も解き放って動くことが出来る。そういうものを求めていかないと、太気とは言えない。太気のようなもので終わってしまう(鹿志村英雄)

丁度お椀に一杯入った水のように、這いや組手など色々変化する中でも絶対に水をこぼさないという、絶対に守るべき部分を持つ。それが禅で養うもの。禅にも低い禅、高い禅あるけれど、そのなかで変わらない部分がある。それは腰の状態や足の指など色々な部分からくるもので、それを守る。それがお椀で水が上体にあたる。体をバラバラにせず動く。そのための守るべきところをしっかり意識して欲しい(天野敏)