古伝武術でカラダ革命 7つの法則
- 登場する先生
- 高木康嗣
- 林肇侖
- (西松正彦)
- 内容
- 立禅からすべてが始まり、すべてが立禅に還る
- 王薌齋と意拳への道
印象に残った言葉
高木師範は"地球と友達になる"と表現しているが、まず体軸が正しく立った状態を体に覚え込ませ、一定の姿勢を保つことで全身が一本につながる感覚を養う(高木康嗣)
自分の体がピタッと一致したという感覚を得られるのに、高木師範の場合で立禅を組んでから三十分ほどかかるという。この感覚を維持できるのは、精々五分くらいなのだが、これが消えたら立禅を解く。無理に続けても効果は期待できないのだ
高木師範によると、組手の際の澤井師範はまるで形状記憶合金のようだったと言う。どんなに動いても立禅の形が崩れないというのである
(古い時代の意拳について形意拳に近いかと問われて)いや、現代の形意拳とは異なる。伝統的な形意拳に近い。それは古法であり、ほとんど失伝してしまった(林肇侖)
簡単に説明すると、站樁には3つの目的がある。①静力の訓練 ②站樁の力を勁力に換える ③人体の能力を最大限に開発する、つまり速度、力量、反応、耐久力、意志力、洞察力などの潜在能力を最大限に開発するのだ(林肇侖)
王薌齋先師いわく、我々は他門の拳術にあるものは持っていなければならない。そして他門の拳術にないものも持たなければならない(林肇侖)
(王先生がサンドバッグやミット打ちを咎めたことについて)それは無知な人間の話だ。古い伝統的な形意拳や八卦掌では竹などを編んで、その中に砂や小石を入れて打つ訓練もあった。王薌齋先師も当然そういった訓練をしていたし、ボクサーと戦った後にもボクシングは拳術の研究に有効だと感じていた。だから、サンドバッグなども取り入れたわけだ(林肇侖)
私は姚宗勲、韓星橋老師からもサンドバッグの打ち方を学んだが、それぞれ風格は異なった。韓老師は身法、歩法を重視した打ち方、姚老師は浸透力であるとか、力、タイミングのコントロールなどに重点を置いた打ち方であった(林肇侖)
(発力について)円運動中に突然円から飛び出し、次の瞬間に弾力で戻る(林肇侖)
(飛ばさない発力はあるか?の問いに)ある。站樁は動かない。試力は円形に動き、発力は串で刺すようなものだ。飛ばすのは相手に怪我をさせないためだ。発力は己の生存に関わるものである。原始的な発力では、360度どこからでも発力できる。推手や表演とは別物である(林肇侖)