意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

張宝琛先生、張俊年先生の著書『大成拳弁証関係浅析』

中国武術の源流は長く、歴史は悠久で、哲理が豊富である。本文では、武術における剛と柔、動と静などの相互関係についていくつかの見解を述べる。各位の拳友からのご指摘をお待ちしている。

一、武与術的関係

「武」には威武と用武の意味があり、精神的に全てを圧倒する気概と技撃時の功力及びその応用を指す。「術」には戦術技術の意味があり、技撃時の形勢に応じた対応能力や剛柔、動静、奇正、虚実の応用、時機の把握、各種技撃技術を意味する。

武術の関係は相互に結合し、また相互に区別される、独立かつ依存し、高度に統一された弁証法的な関係である。威武は用武を基礎としており、一定の功力及び応用能力がなければ、精神的に全てを圧倒する気概はその特定の基礎を失う。同様に、一定の技術がなければ、その戦術も意味を失う。

武と術の関係について言えば、武術は抽象であり、術は武の具体的な形である。武は術の本質であり、術は武の表現形式である。これは鳥の両翼のようで、一方を欠くことはできない。

区別について言えば、大胆無畏の英雄的気概は必ずしも武術の精神を指すわけではなく、威武に屈しない傑出した人物は全て武林の高手とは限らない。威武は必ずしも用武を意味するわけではない。同時に、一定の武功を持ち、応用条件を備えていても、必ずしも威武の精神を持っているわけではない。技術の応用は戦術の応用に代わることはできず、戦術を熟知していても必ずしも技術を持っているわけではない。

したがって、武の条件を備え、術の方法を掌握してこそ「武術」と呼ぶことができる。一方だけを備えている場合は、武術の基礎を持っていると言えるに過ぎない。大成拳について言えば、単に站樁、試力、摩擦步、推手、試声、発力を知っているだけでは、大成拳を理解したとは言えず、これらを知らなければなおさら大成拳を理解したとは言えない。上述の功法を真剣に習得し、清逸大勇の精神と豊富な実践経験及び戦術を鍛え上げてこそ、大成拳を掌握したと言える。

二、大成拳中的剛与柔

大成拳の訓練と応用の中で、訓練時には柔で、応用時には剛であるべきだと考える人がいる。站樁時は放松を重視し、試力時はゆっくりと行い、推手時には力を用いないようにするなど、柔を重んじる考え方が多い。実戦では強攻硬打し、実を狙う。推手では人を放ち、一触即発の精神もある。これは表面的な現象に過ぎない。実際の本質的な関係は、訓練中であれ応用時であれ、剛と柔の対立と統一を体現している。これは相互に矛盾し、相互に依存する弁証法的な関係である。剛は柔の変化であり、柔は剛の段階である。柔がなければ剛は剛となりえず、剛がなければ柔は柔となりえない。前者は王薌齋先生が硬直(=僵)と呼び、後者はたるむ(=懈)と呼ぶ。したがって、拳学の著作では「松であってもたるまず、緊でありながら硬直しない(=松而不懈、緊而不僵)」「松は緊であり、緊は松であり、松緊緊松は行き過ぎない(=松即是緊、緊即是松、松緊緊松過正)」という議論があり、剛柔の関係を繰り返し強調している。拳学では、剛がなければ柔はその意味を失い、柔中に剛が見られるとき、拳法に力が生じる。柔がなければ、剛はその靱性を失う。剛柔相済することで、変化することができる。

剛柔は明確に分けることはできず、剛柔を失うと、研究の前提を失うことになる。そのため、王選傑先生は剛と柔を弾性に例え、弾性を維持するためには剛柔相済が不可欠であり、剛を失っても柔を失っても、弾性を得ることはできないとしている。したがって、站樁時には放松することが求められ、松緊の結合が強調されている。

三、大成拳的動与静

動静の作用について、王薌齋先生は「静的な状態で神経を整え、呼吸を調整し、筋肉を温養して、細胞の発動力を内から外へと発動させ、全身を流通させるようにする。そうすれば、筋骨は鍛えなくても自然と鍛えられ、神経は養わなくても自然と養われる。意を用いてその微細な動静を体察し、功夫が到達すれば、一站が無限の妙用を持つことを理解すべきである。まずは樁法に力を注ぐべきである」と述べている。ここでの「静」は「動」の前提である。静が深ければ深いほど、動はより深まる。全身が動く質の高い動を達成するためには、静から始める必要があり、ここから動静は一体となり、矛盾する概念が完全な統一に達する。

したがって、無形の動こそが高速の動であり、有形の動は動の質が低い表れである。身体訓練では静を強調し、神経、筋肉、さらには細胞までも動かすことを目指す。動と静の差異が大きいほど、その効果も顕著になる。このため、王薌齋先生は「静は処女、動は脱兎の如く」と動静の意義を強調している。

四、大成拳中的奇正関係

奇正の学说は兵法に由来し、古代の兵書『握奇文』では「四は正であり、四は奇であり、余の奇は機を握ることである」と述べられている。

奇とは戦機を把握することを意味し、その戦機の把握と創出が兵法における奇である。拳法においては、相手が必ず守ろうとする所を攻撃することであり、王薌齋先生は「虚を見て実を打たず、実が虚であると知るべきである」と言われた。相手が意識して防御している場所こそ、全体を左右する箇所である。王薌齋先生は「奇とは、奇を以て勝つことを意味する。相手と交手する際は瞬間のうちに、飄々として敵の前に至り、出奇不意に攻撃する。相手を受身の立場に置けば、防ぐのは難しい」と述べている。このような出奇不意の攻撃方法については、『百戦奇略』で詳しく記述されており、ここでは繰り返さない。

正とは、功力が堅固で、浩気が放たれる基盤の上での強攻硬戦を指す。これを達成するためには、確かな功底、前進あるのみの精神、勝つ信念が必要であり、相手の間隙を完全に打ち砕く。このような正面攻撃の方法を正と呼ぶ。

奇と正は相補的であり、奇の中には正が含まれ、正の中にも奇がある。奇正が互いに変化し、真に奇正の方法を掌握し、相手をの動きを調整する目的を達成することが大切である。奇を用いるべき時には奇を用い、正を用いるべき時には正を用い、常に変化し得るが、固執してはならない。奇正のこの矛盾の中で、正は主要な側面である。しかし、具体的な実践においては、奇を主とする局面がしばしば現れるため、十分な準備が必要である。

『大成拳研究1989年第1期』より