意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

『姚老意拳講話録音資料』(13)

私が最初に学んだとき、師兄がいたので、私の話は証明することができます。私たちの先生は教える時、一度に全てを教えて、局部の練習はさせませんでした。私は少し鈍感だったので、最初はできませんでした。自分で先生に言う勇気がなかったので、練習を分割して自己流で模索した。その方が少しやりやすいと感じました。しかし、次の段階では、そのようには要求されず、「すでに力量があり、それを掌握している」と言われました。

次に、私はそれ分けて訓練しました。例えば、木を抱き寄せることから始めます。一度抱き寄せたら、前に推さないでください。一度抱き寄せることが一つの動作です。抱いてから分け、分けたら挿し、挿したら推し、推したらまた抱きます。この順序は全て乱しながら行います。なぜなら、拳術では力を用いる順序を整えることはできないからです。ですから、全てを乱して、自分の想いのままに行って、自分の反応を訓練します。外見には表わさずに、このような訓練を行います。

三番目の段階は養生に近くなり、ほぼ同じになります。さらに進むと、実質的には等しいものとなります。つまり、立っている時は外形が表に現れず、完全に意によるものとなります。ここに木があり、抜かず、挿さず、推さず、抱かず、ただぼんやりとした感じです。ある種の力量が少し感じられるものの、実際には何もないような状態で、模索することが求められます。精神を集中させる必要はなく、むしろ以前よりも緩め、自然に模索するのです。この練習方法は、同志たちが健身樁を練習するのと同じ要求で、有意と無意の間で行います。形意拳の先人は形意拳を総括する際に、「拳無拳、意無意、無拳無意是真意」と言ったのと同じです。私の理解では、拳に外形の形がなく、意はあってもなくても良い、それが最高の原則です。有意と無意の間、というのがその言葉です。

私たちの技撃の練習法と養生はどのように関係があるのでしょうか。多くの人は身体を鍛えるために来ますが、これについて組み合わせて話すべきだと思います。もう一つの話は、私たちが普段行う健身樁の練習のことです。健身樁は立つと同時に想像することが求められます。例えば、寒い日には春の暖かさや花が咲き乱れる情景、鳥のさえずりや花の香りが感じられる場所に立っていると想像します。春の風は穏やかで、全身の毛や髪の毛をそっと吹き上げます。技撃の練習では、王薌齋先生は「全身の毛髪が立ち上がる(=飛漲)」と話し、さらに進んで「站樁は毛髪が立ち上がるだけではなく、探求する感覚が必要」とも述べています。私が言っているのは、例えばコオロギの触角のように、収縮できる能力についてです。実際にこれが拳術とどのような関係があるのでしょうか? これは意念の緩め方に関係します。力を用いずに、その敏感な感覚を遠くに広げる必要があります。精神には波があり、これは私たちの身体が作り出すものではなく、動かないときでも、精神が微細に力と精神を制御します。これは矛盾した状態で、行ったり来たりします。この方法は養生に用います。私の師は1952年に公園で人々に教え始めたときから、この方法を使っていました。当時、私は技撃樁でどのように勁を摸索するかを学んでいたため、先生が技撃樁のより深い側面を使わずに、完全に意感に基づいて健身に応用したと理解しました。これに関する例はたくさんあり、後で少しずつ皆さんに紹介します。