意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

楊鴻晨先生の著書『気勢和精神』

精神というと単に勇敢を指すと思っている人がいるが、技撃時の精神要求を「心が残忍で手が毒のようである(=心狠手毒)」と表現する人もいる。実戦の気勢を命がけの無謀な行動と解釈するのは、大成拳の精神と宗旨に反している。

有名な故事がある。荊軻は母親に孝行し、隣人と仲良くし、行動は謙虚だった。燕国の生死の瞬間に、老母と賢妻に別れを告げて秦王を暗殺しに行き、秦の厳しい宮廷で死を恐れずに大義を貫いた。しかし彼と一緒に行った秦舞陽は殺人犯で、勇敢で心は残忍だったが、秦王に会った時には怖がってしまい破綻してしまった。

この話は、正しい精神と単なる勇敢さや無謀な行動との根本的な違いを示している。

「戦いとは勇気である」とは春秋時代の魯国の軍事家、曹劌が戦争の勝敗要因について述べた鋭い論評である。真に技撃を研究した人なら「技撃の道はまず気勢を争う」と「狭い道で出会ったなら、勇者が勝つ」という道理を知っている。双方が互角なら、力は均衡している。もし怖がり気落ちすれば、必ず精神が乱れ、手は弱くなる。しかし、勇敢で気が足りれば、強く攻撃し、勇気を持って直進し、自然と主導権を握り、勝利を確実にする。古今中外の実戦の達人は技撃時の気勢の修練を重視している。

薌齋先生はこれについて深い独自の体験と見解を持ち、彼の遺著には多くの論述がある。「晴れた空に鷹が鶏場に下り、川が逆流しても慌てることはない」「多くの大敵が立ちはだかったとしても、私にとっては無人の境である」「勢は龍馬が糸を引き、山が一斉に揺れるような衝撃のようである」といったものである。彼自身の気勢は、海外の達人が電気のような眼差しに完全に自信を失い、龍のような声を聞いて驚き恐れるという境地に達している。

薌齋先生は武学文献の冒頭で明確に述べている。「拳の道は大きく、民族精神の需要を反映し、国の学術であり、人生哲学の基礎であり、社会教育の根幹である。その使命は人の心を修正し、感情をさらけ出し、生理を改造し、優れた能力を発揮させることである。これを用いるものは賢くなり、身体は健やかになり、国や村がよくなる。ゆえに専ら技撃に偏るものではない」。ここから、大成拳の気勢は、祖国を愛し、中華民族の振興のために身を捧げる正しい気勢と、真理を追い求め、積極的に真理を守る精神から来ることがわかる。気勢は拳を学ぶ者の精神的な境地の深さを表すものであるため、薌齋先生は「理性を究めることを求め、技撃はそれに次ぐ」と要求している。

薌齋先生は技撃時の気勢と原則を三つに分けている。

一つ目は同道と技を競うことで、互いに実戦を研究し、共に向上するためのものである。技を比較する前には礼儀を尊重し、言葉は優しく、行動には礼儀を持ち、決して傲慢や狂暴であってはならない。相手の技術が劣っている場合は、譲ることもある。

二つ目は外国の拳術家との比武で、民族の利益に関わる。拳を使う際には「精神を満たし、浩気を放ち、神態が人に迫り、気勢が襲い、強く攻めて、勇敢に前進する」ことが求められる。

三つ目は人民の利益を侵害する犯罪者や侵略者との決闘である。薌齋先生は「道義は全くなく、死の決心をして、性命をかけて戦い、動けば必ず相手を倒す」と要求している。これにより、大成拳の実戦の気勢は、国のために戦い、愛憎がはっきりしている精神的な境地を前提としていることがわかる。大成拳の高い境地に達するためには、「高いビルは土の積み重ねから始まり、千里の道も一歩から始まる」という原則に従い、日常生活で精神的な境地の鍛錬に注意を払い、健康を促進し病気を治す基本功法から真剣に取り組む必要がある。

『大成拳研究1989年第1期』より