意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

『姚老意拳講話録音資料』(3)

練功の時間については、厳格な規定を設けるべきではありません。自分自身が以前に設定した時間、例えば10分、15分、20分などは、練習中に気持ちが落ち着いて快適であれば、長くなることがあります。逆に心が落ち着かず、雑念が多く浮かんだり、体が不快であれば、練習の時間は長くなりません。不快感やいらいら感があると、時間が遅く感じられます。しかし、適切な方法で練習して、体が快適であれば、時間は早く過ぎます。ある同志たちが練習を始めた時、5分間練習するのがとても長く感じられましたが、ある日から心を落ち着かせることができ、体もそれを感じられるようになると、自分を忘れて練習に没頭できるようになり、練功時間は5分から30分へと跳ね上がりました。こうしたことは多くの例で見られます。彼らは私に会うと、「ああ、30分も練習していたのに、時間がこんなに早く過ぎるなんて」と驚きます。実際には時間は変わりませんが、個人の感覚が異なるのです。つまり、練功する時は時間や特定の姿勢を追求するべきではありません。初心者の時には、姿勢の高さや手の形、足の要求などは主要なことではありません。重要なのは、精神集中、周身放松、呼吸自然という三点です。姿勢については追求しませんが、健身樁を行う際に姿勢を全く無視するわけではありません。練習を通じて体の反応を観察し、その人の体力に適しているかを確認することが必要です。適さない姿勢は緊張を引き起こし、結果的に悪影響を及ぼすこともあります。一般的には、座って練習することを勧めますが、中には座っての練習は効果が低いと考え、立って行う人もいます。しかし、站樁に適応できず、結果が良くないこともあります。健康を維持し、体質を強化し、慢性病を改善し、健康を回復するためには、自分の身体の客観的な条件に合わせることが必要です。主観的な願望ではなく、実際に体が適応できるかを考慮することが重要です。これが健身樁の一般的な要求です。

松緊の問題についてもう一度説明します。「松ではあっても怠けてはならず、緊ではあっても硬まってはいけない(=松而不懈、緊而不僵)」というのは、みなさんご存知の通りです。これは実際には松緊の転換です。技撃でいつ松となり、いつ緊となるべきかについての明確な基準はありませんが、基準は存在します。どういうことかと言うと、実際の例を挙げます。同志の中には、この拳を練習している人も太極拳を練習している人もいますが、推手をする時に全く勁がない人もいます。そうすると相手の手が来た時に、簡単に推し出されてしまいます。本当に勁を入れると、相手が一度引っ張れば(=扒拉)すぐにふらついてしまい、相手に動かされてしまいます。ですから、どれくらいの勁を使うべきかは完全に自分の感覚に依存します。相手が私を牽動しようとした時に松となれば、力を利用できず滑ってしまいます。これは相手の失敗となるため、松となることが正しいです。しかし、彼が私に向かって推してきたなら、それに合わせて松となれば、一気に相手の力が入ってきて、私に打撃を与えることができます。そのような場合に松となるのは間違いです。ですから、常に松緊は適切に使う必要があります。相手の力を感じ、自分の体でどれだけの力を使うべきか、どの程度が松であるかを判断するのは霊活でなければなりません。この緊は松緊の相互使用です。少しだけ緊としても問題ありませんが、本当の緊とは力を発する瞬間に、体の中で動かすことができるすべての力を動員することです。例えば、その時は「気沈丹田」が求められます。これは横隔膜を圧迫し、腹部の筋肉を全体的に膨らませ、動員可能なすべての力を出すことを意味します。その瞬間の発力はすぐに終わります。技撃と養生は同じで、松緊を互いに用いる時は、松の時間が長くなり、大部分を占めるべきで、緊の時間は短くすべきです。

例を挙げて説明します。私たちが健身樁を行う際に、想像上の球を抱えているという意念を使います。私たちの同学や同門の中で、站樁を教える人は少なくありませんが、このような意念を使うことを好む人が多いです。つまり、紙の球を抱えていると想像し、少しでも力を入れると破れてしまうというような意念を通じて、功夫の訓練を行うというものです。これにより、あなたの脳が考えることが、神経や筋肉を支配し、微妙に動かすことになります。また、このような練習を行うことができます。この球を飛ばそうと思いながら、飛ばさないようにすると、実験をしてみるとわかりますが、数分で汗が出てきて、呼吸も困難になります。この意念は単なる想像とは異なり、真剣に考えるか、考えないかでは結果が全く異なります。去年、世界の窓の翻訳で、運動選手の心理トレーニングの方法が紹介されていました。ある女性運動選手は私に、20分か30分座って意念でトレーニングを行い、終わった後には全身が緊張していたと言っていました。

球を飛ばさないようにするが、破らないようにも注意する必要があります。球が飛び出そうとすると、すぐに手で抱え直し、飛ばないようにし、松となる必要があります。考えることを急いではならず、速すぎると耐えられません。これは技撃でも同様で、ましてや健身ではなおさらです。さらにもう一つ加えて、一つの球ではなく、二つの球を想像してみましょう。一つはこちら、もう一つはあちらです。一つの球を飛ばそうと想像し、それを抱え直し、もう一つの球は破れないように注意します。このような状況では、この力は矛盾を生み出しますが、全体的には、意念によって統一された支配下にあります。実際には、力は異なります。このように練習すると、先ほどの一つの球の練習とは効果が異なりますが、疲労度も異なります。したがって、もう一度強調しますが、拳法を練習する同志も、松となる時間を長く取るべきです。拳法を練習することは本来、体を健康にし、強くするためのものです。もし疲れて自分を壊してしまったら、それは本末転倒で、間違っています。

特に健身を行う同志たちは、さらに探求を深めるべきです。これは正しいと考えますが、自分自身をしっかりとコントロールすることが必要です。意拳全体においては、「不動の中での微動を求める」と言われています。これは具体的に何を意味するのでしょうか? 先ほどの例に戻りますが、私たちの外形は動かないように見え、静止状態のようです。しかし、想像上の球が飛ぶと想像すれば、実際にはその球の微細に動きます。また、水の中に立っていて、波が揺れるのを防ごうと思うと、実際には体が非常に小さく揺れています。これが「不動の中の微動を求める」こと、つまり微細な動きです。探求を始める際には、まず精神を放松させ、緊張を解放することから始めるべきです。少しの感覚があれば良いですし、感じなくても問題ありません。非常に微細な動きです。この方法なら、身体をさらに鍛えようとする過程で、身体に損傷を与えるリスクを最小限に抑えることができます。もちろん、今月は身体がまだ準備ができていない同志もいるかもしれませんが、来月には完全にできるようになるかもしれません。これは、自分自身の実践を通じて注意深く探る必要があります。