意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

『林肇侖談拳録』(3)

意拳丹田と周天功の訓練を重視しないと考える人がいるが、これは考えが不足している。このような観念は不完全であり、林先生は私たちに次のように教えてくれた。

一.丹田と周天功を練ることは、正しい思想の指導の下で、養生作用やその他の効果をもたらすことができる。これは伝統的な練功方法の一つであり、意拳の最初期の練習方法でもある。意拳はこの方法を完全に否定していない。

二.丹田は人体の穴位であり、その訓練特徴は「点」にある。周天功は人体の脉絡を通るもので、その訓練特徴は「線」を練ることにある。現在の意拳はこれらの「点」と「線」を練らない。現代意拳は「面」や「渾円」、または「整体」を練るとも言える。これは人体と精神の全面的な訓練である。薌老は「全身無処不丹田」という見解を提出している。身体の各部分が絶対に健康でのびのび(=舒适)としており、精神的な愉悦が意拳の目標である。

三.術語中の丹田は腎のホルモンが集まる所であり、膻中(上気海)は胸のホルモンが集まる所である。訓練を通じて、ホルモンはエネルギーや体液の形で穴位周囲に集まり、その免疫機能を発揮して人体の健康を維持する。意拳の重要な機能は、人体のすべての腺の健康な運動を促進し、それらの免疫機能と潜在能力を十分に発揮することである。これは丹田周囲の腎や大小周天の運行路線上の腺にのみ注目するのではない。

四.意拳は混元の気と渾円力の鍛錬を重視しており、人体の「面」(整体)に対する訓練の効果は伝統的な丹田の「点」、周天の「線」の効果を絶対的にに上回り、「人天合一」と「道法自然」の伝統理論と完全に一致している。

五.拳を学ぶことは登山のようである。山頂に登る前は、「身在此山中」で、視野に限りがあり、登山者は近道を見つけるのが難しい。山頂に登った人だけが、どの道が最も便利かをはっきりと見ることができる。「明師」は、確固たる意志で拳学の山頂に登った人であり、学生に最も速く、最も正しい登山の道を指導することができる。

六.意拳を学ぶには、まず意拳理論の科学性を十分に理解し認識しなくてはならない。三日間は魚を捕り、二日間は網を干すようでは(訳注:三日坊主のこと)、意拳という「スイカ」を失い、他の「ゴマ」を拾いに行って、無価値なものを背負って帰ってくることになる。そうであれば、いつまでも意拳の門外に迷い続け、意拳の真髄を得ることはなく、意拳の恩恵を受けることもない。

七.「気足神全」、これは王薌齋先生が意拳の健身に対する深い洞察である。つまり、人の体の「気」が充足すると、精神が健康で安定し、精力が溢れる。「気」は中医学の用語で、現代の意味では「エネルギー」と理解できる。意拳を練習することは、エネルギー、つまり「気」を蓄積する過程である。人を打つことは力の範疇であり、人に発することは気の範疇であり、人を制することは神の範疇である。

八.拳を習い、功を練るには、「明師」、「大師」だけでは足りない。「師自然」、「師造化」であり、大自然、宇宙から拳の道理を理解する必要がある。例えば、海水が岸辺の岩に絶え間なく打ち寄せる様子は、勢いが荒々しく、能量が尽きることがない。拳を練るときには、大海が海岸を洗い流す感覚があり、この自然現象から拳理を探す必要がある。

九.林先生は次のように言われた。「練功はいくつかのものを選別する必要がある。異なる段階で異なるものを選ぶ」「全てを欲しがってはならず、精髄を残す。王薌齋先生は『立つ者は立つ、捨てる者は捨てる』と語っていた」。

十.「意念の訓練は、火加減と分寸の把握を求める」

十一.「悟道」とは、ある道理を理解することであり、方法ではない。