意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

『林肇侖談拳録』(4)

一.站樁時、自分を水中の一匹の魚と想像することができる。食物の心配をせず、外界からの干渉がなく、湖水の抱擁の中で自由に泳ぎ、水の柔らかさと甘さを楽しむ。樁功の養生は快適さを探し、愉快な過程を見つけることである。

二.樁功の間架は確かに重要であるが、更に重要なのは師が樁を調整した後の感覚を覚えておき、その感覚をできるだけ保持することである。「意感」を使って間架を導くのである。

三.推手の時は、腰部は松とし、力を用いてつっぱってはならない(=頂)。相手が攻めてくるのを恐れれば恐れるほど、力が入りすぎる。腰部を放松すると、相手は容易に攻めることができない。

四.拳を学ぶには、最初に拳理を学ばねばならず、具体的な招式ではない。理論を理解した上で技術方法を学ぶと、効率が倍増する。

五.養生樁を立つ時、自分が湖面に浮かぶ一枚の葉のように想像し、波紋に揺られながら、快適で、心地よく(=舒适)、楽しく過ごす。

六.推拉試力を行う際、遠くの木々を眼と両手の中心で引き寄せ、押し戻す(=推回)ような意念で行い、これを繰り返す。

七.養生と技撃では、異なる訓練方法を使用し、異なる路線を歩むため、効果も異なる。訓練が深まるにつれ、意拳の高級段階に到り、これら二つの道は一つに重なる。

八.「舒适得力」の中の「得力」とは、間架を充実させ続けることを意味し、「舒适」のために間架がゆるく崩れることがあってはならない。

九.試力は站樁の空間における拡張であり、二人の推手は二人の試力である。

十.意拳の動作形式は単純だが、内容は豊富で複雑であるため、見た目は簡単だが、実行は非常に難しい。端的に言えば、意拳は非常に単純でありながら、非常に難しい学問である。

十一.技撃の方法において、王薌齋は次のような意味の言葉を残している。「他の拳にあるものは意拳に必ずあり、他の拳にないものも意拳にはある。これが意拳の中心思想であり、意拳の命である!」。

十二.摩擦步を行う時、膝にはある程度の弧度を持たせるべきである。站樁のように、腿はわずかに曲げ、完全に伸ばしてはならない。完全に伸ばした状態では、歩法が硬くなり、実戦では動きが霊活でなくなる。

十三.摩擦步を行う時、頭部が体を引き(=引領)、足が地面に触れる時、麺棒を踏むように、慎重に探りながら下に踏み込む(=踩)必要がある。