意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

知行解釈(『拳道中枢』より)

学術の一道は、知ることによって行うことができ、行うことによって知ることができる。そうでなければ、自分を欺くことになり、妄執にとりつかれ、際限なく話すことになる。知行の二字は名前は簡易であるが、実際は煩雑である。世の人は「知ることは難しく行うことは易しい」と言い、一方で「知ることも行うことも難しく、知行合一に易しいところはない」とも言う。以上の話には、各々に理があるが、大雑把で片面の理を集めたもので、徹底的に明らかにするものではない。専門の学問を持つ者は皆、知ることは難しく得ることは易しいと言う。功が深くなるのを識鑑する(=見定める)ように、知るのは易しく行うのは難しい。もし認識はあるが功力がない場合、知るのは易しく行うのは難しく、ただ功力がなく知識もない場合、知行の二字の両方が不可能である。学術の根は無の境地であり、若干の知と若干の行があって、何歩か進んだとして、どこまでが真の知で真の行なのかどうやって知るのだろうか? 私はあえて論結を加えない。知ることができる者は既に行っており、また知ることができる者は既に行っている、いわゆる知行一致を始めることができる。真の知がなければ真の行の日は来ず、また真の行がなければ真の知の時を移すことはない。学術が皆そうであるように、真理はお互いに相成りたつものであり、武徳は甚だそうである。だからこそ二つは道中で絶えず出会わなくてはならず、思考する暇がなく、老夫が常に話していることも認められない。学術の一道はまず理を明らかにし、さらに切実に功を用いる。先に理を明らかにしなければ、功をどのように用いればいいかを知らず、外れた道に容易く入り、功夫は悲惨なものになり、読書と写字やいずれかの芸術を論じるまでもなく、幼年時からそれを原因になり、年長になり功が深くなり、天下に響くものでも耐えないものになるのはこれである。その理由は師の法が良くなく、功が細心ではなく、表面を追求し、人が学べば学び、人が言えば言う、いわゆる盲従である。もし習っても成果が出ないなら、愚昧で永遠に体認しないと言える。茫然とした一生、実際がなく、神秘思想に容易く入り、ついに入り口を見ることも叶わず、最後まで体認することがない、哀れかな! 巧みに知った者は習う門にいるに過ぎず、文いわく「子孫は愚かであり、読書を避けることができず、理を明らかにして、更に実践し、内外を明らかにして、お互いに支え合わなければ、軌に入ることは難しい」。