意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

論単双重与不着(『拳道中枢』より)

拳道の原理について論じるならば、平時の練習であれ技撃の中であれ、全身の均整を保持しなければならず、微塵も偏りがあってはならない。少しでも平衡でないところがあれば、形は着象し、力も破体する。神、形、力、意はすべて着象を許さず、一たび着象すればそれは片面であり、衛生的ではなく、また人に乗じられ易い。学ぶ者はこれを慎むべきである。均衡とは呆板なものではなく、少しでも板になると双重の病を犯し易いが、霊敏過ぎてもならず、霊敏が過ぎれば花となってもは実はならない。体は伸び伸びとし(=舒放)ながら、屈折を含蓄せねばならず、発力の時もまた断続を許さず、いわゆる力は亡びざるものである。双重とは足の位置を指すのではなく、頭、手、肩、肘、膝、胯の大小の関節に至るまで、微細な力にも全て単双、松緊、虚実、軽重の区別がある。現在の拳家は大抵が片面の単重から絶対の双重へと歩み、更に絶対の双重から僵死への道を辿る。単双重の学は、長く習うほど溺れるものである。今の各家の拳譜を論じても、すべて本を失い適当でなく、その作者は皆形を露わにし、規を犯し、体を大いに破る者で、すべての姿勢は荒れた唐の天下、麻の世人の肉であり、習うほど拳道の門径から遠ざかる。着象せずに死板になり、一度着象すれば散乱して章がなくなり、たとえ単重の妙に遭ったとしても、理解できなければ、これも双重と変わらず、不自然で不快であり、百骸が正を失って止まり、刻板な方法へと歩み、機に随って動くことが永遠になく、変化に方はなく、更に良能を発揮する日もない。あぁ、これもまた誠に可哀想なことだ。神と意が着象せず、触感の良能の活力を応用できなければ、それを証明することも足りない。例えば双方が決闘し、利害が目の前にあって、間髪も許さないとする。まだ接触していない時にはどう応用するかを知らず、解決した後でも適当な時に何を使ったかも知ることがない。いわゆる、期せずして然り知らずして至るであり、また極中で和に到る。これが本能力の自動の好機である。