意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

混元樁(三)(『拳学新編』より)

以上の二つの樁を学んだ後、この樁を練習する。立勢より始め、安定して立った後、再び歩を開く。左右の両足は、前後に展開する(これが進退歩である)。膝を曲げて身体は蹲り、両手を環にして抱える。横撑し、ねじり(=拧裹)ながら前方に伸ばす。筋肉をねじり(=裹)束ね、骨骼の節には曲がっていないところがない。これを鈍角の三角形である(即ち、90度より大きい角度で、鋭角を持たない)。全身には平面の部分がなく、絶対的な力も存在しない。曲折は精巧で、混元は一体であり、この樁には、前述の二樁の効用も備わっている。機に応じて巧妙に用い、応変は無窮である。実際の戦いに使うことができ、打顧の精がある。立つ時は混元樁(一)と混元樁(二)、腰と膝の二つの要点、そして以下の各点に注意する:

「歩」:歩が大きければ不霊である、これが歩法の要決である。開歩の時は、前足を進め、後足が随う。両足の最大距離は約一尺二、三寸である。動作について言えば、回旋は七、八寸を越えない。両足が一直線上にあると安定しづらいので、左右にわずかに開ける必要がある。その幅は肩の幅を基準にする。

「手」:手を出すとき、両手を左右に伸ばすが、均く鼻を越えない。中線を守るため、眉よりも高くならず、臍よりも下にしてはならない。前に伸ばす時は、足の先端を越えてはならない。手を引く時、腹部に近過ぎてはならない。これは最重要の規律であり、違反してはならない。平面なところは許されず、曲がっていないところはなく、曲がっているところは必ず相乗する。「八面出鋒」という言葉を理解すると、その奥妙がわかる。掌が拳に変わり、五指は麻が寄り合うように繋がり、指力は嬰児が物を握るようであり、緊捻密持の意が必要である(この握り方は、撃つ時に発力しやすい)。死んだ握りは忌み、手の吃力は避け、両腕を円活に動かすと、気力が円滑に伝わり、手足が相応する。両肘は、鼓を抱くように曲げる。どんなに手式を変えても、両肘は常に横撑の力を保持しなければならない。肘が急に近づいたり、遠ざかったりしてはならない。これにより、活動の空間(占める面積)が失われ、相手に進撃の機会を与えることになる。

「肩」:歩法が変わっても、両腕が力を得られるかどうかは、両肩にかかっている。その要決は、肩を緩めることである。肩が緩めば下に垂れ、左右の腋肋はその空間を支撑し、球を納めるかの如くである。両腕がこの空間を得れば、活動は自在となる。さらに、心窝を僅かに收め、胸を虚にして背を円として、肩がその平を得れば、渾身の気力が直接掌に貫く。

「筋骨」:力は骨から生まれ、筋に達する。筋が長ければ力は大きく、骨が重ければ筋は霊となる。筋が伸びれば、関節が縮む。骨が霊であれば、力は実となる。筋を伸ばして、腕(手足四肢と項)を張り出すと(=挺)、渾身の筋絡が展開する。両腕は横撑で平であり、挽抱、開合、伸縮の力を持つ。両腿には、挟、扒、縮、趟、崩、擰、裏の力が必要である。肩は支え(=撑)、胯は落とす(=墜)。尾閭は中正で、これらは皆軽視してはならない。骨は弓のように重く、筋は弓の弦のように伸びる。運勁は弓が満ちているようである。発手は矢を放つに似る。力を用いるときは糸を引くようであり、両手は綿を引き裂くようである。この樁を立つ時、全身の上下前後左右八方、頭と足、頭と手、手と肩、手と腰、肩と膝、肘と胯など、どこでも相互に対応しており、縄が互いに反対の方向へと引きずられる、あるいは人々が互いに押し合っているかのようである。実際には、そうした引っ張り合いや押し合いは存在しないが、そのような意がある。もし実際に引っ張り合うようにするなら、それは誤りである。それは欲望の支配で、動作は知らずのうちに吃力となり、自然を失う。立つときにこれを体認すれば、全身が完整に感じられる。久しく続ければ、八面の意を持つことができ、気力は中の意、気、力となる。人の身体の動用には運動の空間が存在し、その運動の中で頭、足、身体、手が占める面積は、頭、足、身体、手の各部分の作用の違いにより、それぞれ異なる。その争力の作用や各部分の応じる関係に至っては、さらに原因によってそれぞれ異なる。これを明らかにしたいのであれば、混元樁の三樁の中で探るべきで、そこでその奥妙を得ることができる。凡そ百の運動はこの基から生まれ出る。これを軽視することはできるだろうか?