意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

張広玉先生の著書『意拳試力与発力之体会 』

意拳又は大成拳の宗師は河北省深県の王薌齋先生である。意拳は、形意、八卦、太極、少林、武当、峨嵋、ボクシング、気功の精髄を一炉に溶かし、独自の風格を築き上げた。その目的は病の治療、健身、寿命延長、技撃、自衛である。

鍛錬と運用の過程において、動静相兼、剛柔相交し、固定の招式を説かず、自然に従い、心のままに行動し、交手の一刹那において相手を制することを旨とし、その威力は類を見ない。意拳の鍛錬には、様々な段階が存在し、站樁、試力、歩法、操拳、五形功、発力、推手、散手などの稽古などが含まれる。

よく知られているように、意拳の力は「站樁」から得られる。站樁を通じて体を壮建にして、内勁(力量)を身につけるが、この種の力は実用的だろうか? 実用的ではない。なぜなら、戦闘や技撃の場面では、霊活で多様な力が必要である。では、身体の力をどのように体現するのだろうか? それは「試力」を通じて解決しなければならない。

意拳の宗師、王薌齋先生は「力は試すことで得られ、さらに知ることでその用を得ることができる」と語られた。故に試力は站樁の継続であり、向上させる手段といえる。

試力は一定の形体と一定の肩の配置が必要で、形体を通して人の力量を表現することができる。意拳の試力には、頭試力、肩試力、胸試力、掌試力、声試力、拳試力、五形功試力、背試力、肘試力、膝試力、胯試力、脚試力、上下、左右、前後の試力、直力、横力、竪力、斜力の試力、抖力、弾力、惊力、螺旋力の試力、単双推手の試力、散手の試力などがある。散手や戦闘中に必要な力はどんなものであれ試すべきであり、站樁から試力、発力、力の運用へと向かい、高度な功夫への発展には試力による解決が必要である。試力は、ゆっくりと柔らかく、筋肉を緩ませ空霊とし、松静自然を求める。形はゆっくりとしながらも神は速く、手は空撃せず、意は空回せず、外界との争力、空気の阻力を感じるようにする。磨擦力もある。 相手と接触するときに力を発揮できない場合、試力の不足がその根本の原因であることがある。試力は渾円を求め、最初は局部、単線、上、下、左、右、前、後、高、低、横、横七竪八といったものあり、これらが有機的に統合され渾円となる。この渾円力は争力の中に力量を求め、一つの動きで全身が動くように、局部を用いず相手の一点を打つ。これが整体であり、球のようである。渾円整体を用いて、相手の散体を打つのである。

試力は、固定試力と自由運動の試力、有形有意の試力と無形無意の試力に分かれる。試力は実践の必要に応じて調整されるべきで、一動から百動に応じる必要がある。上下は相随し、腰を主として、松でありながら弛まない。試力は大から小へ至り、大動は小動、小動は不動に及ばない。不動の動こそ生き生きとした真の動であり、試力はこれを掌握する必要がある。以下、基本要領である。1.試力は意を用いて力を用いず、形は松とし、意は緊とする;2. 意は均衡して完全でなければならず、全面に行き渡るように誘導される;3. 全身に争力がある;4. 肩の配置(姿勢)は適切でなければならず、肩の配置は伸び伸びしていなければならない。不自然な姿勢では力を十分に発揮できず、これを破体と呼ぶ;5.意念假借は過度にすべきでなく、意念は有るようで無く、無のようで無ではない。存在するようでもあり、存在しないようでもあるのが良い;6.試力は渾厚虚霊で、筋肉は放松して、内部は充実している必要がある。外部の阻力は軽視すべきではなく、「空」であってはならない(渾円の表現は肢体が鉛のように沈み、虚霊で、試力の際に身体は流水のように動き、全て猫が動くように停滞感がない);7.形と意、動と静、緊と松、虚と実の関係を理解するには、站樁が基本であり、試力が鍵である

試力を実用するためには、発力の練習が必要である。意拳の発力は、意識を誘導し、精神を極度に高揚させ、全身の骨と関節によって支えられ、筋肉が突然収縮して特定の方向に合力を生成する過程である。これを発力と呼ぶ。意拳の発力は、初級力、中級力、高級力の三つの段階に分かれる。初級力は整体力であり、身体を用いて人を打ち、一度動けば全身が動く。相手に触れるのは一部であるが、力は全身の力である。中級力は爆発力で、整体力を基に、筋肉が瞬間的に収縮して力を爆発させる。高級力は、中級力を基に、長期の神、意、気、力、形の訓練を経て、有形または無形の中で発揮できる力を養うもので、これが「渾円力」である。この種の力は、火薬の爆発のようであり、猛烈な波が岸辺に打ち寄せるように、抵抗することができない。

発力には、定歩発力、活歩発力、自由歩発力がある。発力は貫通力を求める(つまり、相手の前を打てば後が痛み、相手の上を打つと下が痛み、その五臓を振動させる)。

発力は身法と歩法と結びつけて練習し、先生は「身動如山飛」(腰を軸に全身を動かす)と言われた。他の人がいない状況での発力の練習を重ね、声力と同時に発する練習を行い、歩走、座、卧といった日常の動作全てに発力の練習を取り入れる必要がある。そうすれば力が絶たれても神は連なる。力の種類は多岐にわたり、試力の種類が多いほど、発力の種類も多くなる。日常生活の中で拳を練習し、拳の中で生活を楽しむことが大切で、拳を手放さずに練習を続け、突然の発力や加速する発力を習得するための練習が必要である。発力は冷、絶、脆、快でなければならず、出る瞬間は鷹の爪のようであり、引く瞬間は鉄鉤のようでなければならない。全身に争力を発揮し、ばねのようで無いところはなく、一触即発で、感じれば応じる能力を備えるべきである。