意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

『意拳要点(王薌齋口述、何鏡平記録)』

一、総則

1、形を以て体を為し、意を以て用と為し、静を以て和と為す。
2、形を以て意を取り、意を以て形を象り、形は意が転じるのに随い、意は形から生まれ、式は随い意は従い、力は意の発動に由る。
3、松(=緩める、ゆとりがある)は緊であり、緊は松であり、松緊緊松は正(=純粋で混じり気がない)にならない。実は虚であり、虚は実であり、虚実実虚は中平を得る。動は静であり、静は動であり、動静静動はお互いは根として用いる。顧(=振り向く、反対に)は打であり、打は顧であり、手を発すればすぐに達する。
4、静中に動を求め、動中に静を求め、動中に不動の動となる静があり、静中に不静の静となる動がある。動中の静は真の静であり、静中の動は真の動であり、動静はお互いを根とし、錯綜して用いる。
5、神は外に溢れず、意は形に露われず、形は破体せず、力は突出しない。
6、内は空虚で、外は脱化し、随時注意し、体は遍く軽霊である。

二、樁法

1、立つ姿勢は良く、意念は放大で、まず頭部から開始し、徐々に全身の毛孔を緩め、堂を風が吹きそよぐ感があり、後に左右に伸展し、項の筋肉の変化をまっすぐ伸ばし、虚霊黙守に到達することを要求し、具体で抑揚があり、毛髪は収まる感である。
2、初めて練習する時は遠くを看て、宇宙を静観し、常に黙然する。怠惰の心情を覚え、全身を舒放させ、身形を中正にし、腹内は空虚、悠然と空中に浮いている如くである。
3、綿々と存在し、有るようで無いようでもあり、身は烘炉で精錬しているようであり、何物も包容しないものはない。
4、練功時は、執着の心があってはならず、虚無の中に実際を求め、姿形に拘ってはならず、姿形に拘るのは真にあらず。
5、神が動き、意が動き、力量が動く。
6、勁が断たれても意は断たれず、意が断たれても神はなお連なる。
7、形体は動かず、意念は往かず、精神は満ち足りて、気血は汪洋大海の如く、波乱で雄大であり、滔々として絶えない。
8、心は焙炉のようで、雑念は雪片が降りしきり炉に入ればすぐに溶けてしまい、心胸は広々として、胆気は壮大で、正気は旺盛で、邪気は自ずと敗れる。照りつける太陽が空に当たれば、迷霧は霧散する。緩中で伸び伸びとして、応じるのは無窮であり、運動時は渾圓を保持して、動作は一のようで、形式に拘らず、執着してはならず、一法不立、無法不備である。
9、松静中に挺抜を求め、運動中に舒放を求め、静寂に息を整え、内外を温養し、内は軽松で外は脱化して、動から静に至り、気血と筋肉はどこも天地に立ち込めるようで、万物は流転し、動けば霊を蔵し、静中に原状を保持する。
10、神は自ずと象の外を動き、意の妙は無念の中にある。
11、ただ神意が足りるのを求め、形骸が似るのを求めず。
12、站樁の单双重は偏らないように調整し、渾身の血行を曲折させ、路線を適当にし、曲折した面積は力を得て、单双重、松緊、虚実、軽重の別がないところはない。病気や個人によって養息、治療、鍛錬を適切に配分する。
13、鍛錬を増強するためには疲労を取り除く必要があり、力の余力が必要で、体の負担能力を超えてはならず、適切にする。
14、練功時は焦ってはならず、まずは適当な場所を探し、神を凝らせて心を静め、息を調えて立ち、体躯を直ぐにし、両足を開いて肩と揃え、渾身の関節は全て曲を含むようで直に非ずの意思を持ち、内は空霊で外は清虚である。両手は慢慢軽松で上に提とし、高きは眉を超えず、低きは腹を超えず、上腕は半圓で、脇は半虚、左手は身の右に行かず、右手は身の左に行かず、抱を用いるが身には付かず、外に向かって推すが一尺(=約三十八センチ)までは行かず、双手の変化は範囲の中にある。姿式の善悪、繁簡、順序に関わらず、全身の内外の力を得られるか、力を得られないかを須く観察し、凡庸を守り、好奇に囚われない。元来最も平易なものであるが、この種の運動は本当に珍しいもので、脳を用いず、力を浪費せず、行站坐卧の全てで練ることができる。この中には無限の神思を蔵し、金と美玉を精製し、生来の天趣を探求する。誰が楽しんでこの虚空の宇宙力を支配できると知っているのだろうか。鍛錬の愉快、難しさを例えるならば、果てしなく舞っていくようで、精力が満ち溢れて神は疲れず、路線のように頭と項に注意をし、遍く体は泥のような松浄力があり、細胞系を黙って慧眼で観察し、酔ったように迷ったように、狂ったように愚かなように、虚霊は独りで存在し、抑揚は互いに寄り合い、広い海と天空があらゆる思いを取り除き、太陽、月、惑星が転移するのを気にかけ、ただ恒心で立つことを求めれば、思いがけない伸びやかさがある。これは前人が伝えていない秘訣である。

三、技撃
(一) 提綱
1、頭直、目正、神荘、声静。静、敬、虚、切、恭、慎、意、和。
2、全身の関節は形は曲、力は直で、神は松、意は緊で、筋肉は力を含み、骨の中に棱を蔵し、神は霧の中の豹の如く、気は蛟が跳ね回るようで、神意は縦に巨風が木を囲むようで、地を引き抜いて上がることを欲し、擰(=捻る、絞る、捻る)擺(=振る、振り動かす)横揺の力があり、開かないものに衝突する力があり,突き破っても散じることなく、静かで動かず、穏やかなことは泰山の如く、外形は不器用であり、意の力は霊功で、平凡の中に非常を求め、抽象の中に具体を求める。
3、筋は勁を蔵し、骨は棱を蔵し、悠揚は寄り添い合い、虚霊は独りで存在し、渾身の毛髪は戟の如く縦かつ直に立ち、歯は筋を断とうと欲し、爪は骨を透かそうと欲し、発は冠を撃とうと欲する。
4、鹰目、猿神、猫行、馬奔、鼎を挙げるが如く起き、煉瓦を割るが如く落ち、鶏腿、蛇身。
5、動静、虚実、快慢、松緊、進退、反側、縦横、高低、争斂(=収める、しまう、潜める)、遒(=迫る、接近する、堅固)放、鼓(=膨れる、奮い起こす)蕩(=揺れる、揺り動かす)、開合、伸縮、抑揚、提頓(=少し止まる、急に)、吞吐、陰陽、邪正、長短、大小、剛柔等、これらは全て矛盾の矛盾であり、入り混じる。圓融の圓融に到り、後に返って初歩を学ぶ。
6、高きは身を揚げ、増長して収斂(=収める、しまう、潜める)する意で、低きは身を縮め、放縦の形を鑽提し、縦は勢いを放ち、勇者は捜索して返らず、横の力は裹(=巻く、巻きつける、くるむ、包む)で、開合は争力を分け、側を左右を打てば、抵抗する者はない。
7、足は七分を占め、手は三分を占め、身は弩弓の如く、拳は弹の如く。
8、肩は撑(=支える、持ちこたえる)、肘は横、指は弯、頭は頂縮の力を増加させ、腰と胯は輪の如く、扭(=振り向く、くねらせる、掴み合う)、挫(=くじく、抑える)、提、旋、互いに交差し、膝は縦、足は提、全身の力は糸を引くようである。
9、静かなることは潮が上がるようで、動くことは風雲に似る。
10、態は書生や女郎のようであり、偉大は楚の大王に比べられ、一声の叱咤は風雲を響かせ、神情の豪放さは雄大かつ壮大で、一度接触すれば虎や狼に似て、歩の軽重は千丈の谷間を歩くように、一面は鼓(=膨れる、奮い起こす)、一面は蕩(=揺れる、揺り動かす)、全身にばねでないところはなく、歯を掴み、足は握り、毛髪は金槍に似て、一度経験して触覚が立てば緊は直ぐに張(=ぴんと張る、開く)になり、火薬が爆発する状態で、炸力が発出されても意はなくならず、深い暗中に蔵し無形で機に応じて変じて、閃(=ぱっと避ける、隠れる、捻る)展、進退、緊提防、打顧、正側は少しも虚に譲らず、勢は力を均とし、相手の手法を須く看て、去勢は鷹や鹘ごとく下がり、鶏のように揚がり、翻江は海に慌てず海に到り、丹鳳朝陽が強を占め、撥(=動かす、回す、つつく)鑽擰(=捻る、絞る、捻る)挫(=くじく、抑える)は飛蝗(=ばった)を断ち、ナイフとフォークは互いに上となり、腿足の提縮は蟷螂に似て、敵の力量の方向を推し量り、勢の機会を察して、身の短長を測り、龍や馬、糸を捻る勢いで、一度ぶつかれば山が揺れる。

(二) 拳式
冬眠した龍が首を探し  進退は腕を巻き込み  大海で龍が吟じ  波浪が頓(=少し止まる、急に)首する
半分の窓から雨を観察し  兎が起き隼が落ち  地を貫き鼠を追い  駒止は風を聞き
驚蛇が敵に逢い  怒った虎が山を捜し  弓を提げ狐を捉え  白猿が鶴と戦う

(三) 試力
1、不動の中で体得し、微動の中で認識する。動こうと欲すれば止まろうと欲し、止まろうとすれば動こうと欲する。動中は止まらないことができず、止中は動かないことができないの意である。
2、体動は作用であり、動は静を守り、静は発動し、動静は互いに用となし、動転の変化は無定である。
3、動は次々に溢れる感があり、四肢百骸は最後には一貫し、泥の中を行くが如く、運動は糸を紡ぐが如く。
4、動く時は不動の均整を散じてはならず、不動の時は動時の力量を減らしてはならず、その作用は巧妙で、体験することでこれを得る。
5、上が動こうと欲すれば下は自ずと随い、下が動こうと欲すれば上は率い、上下が動けば中間が攻め、中間が攻めれば上下が合い、内外は合い連なり、前後左右は相応し動く。これは試力の効能で、力は試すことで知り、知ることで用いる。

(四) 発力
1、本心の発動の力量は前後左右上下の平衡均整かどうかで、具体は螺旋が錯綜する力量で、絶えず尽きない力量を持ち、軽松で正確な快速な惰性の力量であり、本能の発動であり、期せずとして到り、知らずして到る力量である。
2、単双重の松緊に注意し、単双重は単に手足について言っているのではなく、頭、身、手、足、肩、肘、膝、胯、大小の関節や四肢百骸にあり、どんな些細な力すべてに单双重、松緊、虚実、軽重の別があり、撑(=支える、持ちこたえる)三抱七、前四後六で、反転して互いに用いる。
3、発力は有形であり無形であり、有意であり無意であり、有定位であり無定位であり、自動であり被動であり、整体であり局部であり、応用するときは別に論じる。各種の基礎を完備し、軽松で正確で具体的な繊細な力量を再認識し、永遠に定まらず、発力は進歩発、退歩発、横歩発、前後左右上下百般の発力は前歩で後歩を作り、後歩で前歩を作り、前歩で後歩の前歩を作り、後歩で前歩の後歩を作り、互いに反転して、虚実は互いに用いて、前後の力量が交叉すれば、誰も捉えることはできない(撑(=支える、持ちこたえる)抱力は開合力である)。

(五) 実作
1、拳撃の一動は精神を尊び、内は提、外は随を求め、手足が揃って到る法が真であり、意は遠、気は催を求め、拳は炮に似て、蛇は身を倦み、応敵は火が身を焼くように、充華は骨を必ず強くし、事物の外表は真を表し、計略は遠くから回り、精神は雷が落ちるに似て、心毒は上策に合い、残忍な手は人に勝つ。閃(=ぱっと避ける、隠れる、捻る)とは何か? 進とは何か? 進は閃であり、閃は進であり、美観を求める必要はない。打とは何か? 顧(=振り向く、反対に)とは何か? 顧は打であり、打は顧であり、手を発すれば交わり、力は火薬、拳は弾丸の如く、霊機の一動で鳥は飛ぶことが難しい。
2、敵が不動なら、我は沈静、敵が僅かに動けば、我が先に発する。
3、動かざるは書生の如く、一度動けば龍虎の如く、発動は迅雷に似て耳を覆うこともできない。
4、手は霊を要し、足は軽を要し、進退旋転は猫の形に似て、身は正を要し、目は精を集める。手足は揃って勝り、手が到っても歩が到らなければ人を打つ妙を得ず、手が到り歩が至れば、人を打つのは草を抜くが如く。上は喉を打ち、下は陰を打ち、左右の両肋に中心があり、拳打は丈(=約三メートル)の外には行かず、近くても一寸(=約三十センチ)の間があり、手は巨砲の直撃の如く、足が落ちるは大樹を差し込むが如く、眼は毒を要し、手は奸を要し、歩は中門を踏み、鑽入して敵の重心を奪えば、神仙とて防ぎ難い。
5、鷂が林に入り、燕が水を摑み、虎が羊の群を捉えて威風を奮う。四梢を等しく揃えれば勝ちを得て、懐疑心があれば必ず負ける。声は東に撃は西に、南を指して北を打ち、上は虚、下は実、霊機は自ずと推し量り、左拳を出せば右拳が至り、単手が到れば双手が来る。拳は鳩尾から出て、鼻尖の前に発せられ、鼻は中央の土であり、万物生産の源であり、中央全体を撃てば皆なびき、両手は結合して正面から出て、自然に五道関を定め、身は弓の如く、拳は弾丸の如く、弦が響けば鳥が鮮やかに落ち、敵に会えば身が着火する如く、打破硬進すれば阻むことはできない。
6、推手の時は心を中線の位置を保持して、侵犯を受けず、さらに最大の能力を用いて相手の中線を制圧し、双手は相手の鼻口部位から離れることがなく、意は牛を自分のところに引き寄せる如くの意である。
7、推手の時はさらに歩法で位置を奪うことに注意し、進半歩あるいは退半歩によって相手を打ち倒すことができ、それは手腕の動作の大小とは関係がない。
8、力の発出は一刹那の間にあり、有形無形、有意無意、有定位無定位、整体局部、自動被動があり、具体にして僅かで、力を使う時は大半が挙(=差し上げる、持ち上げる、起こす)、抗(= 抵抗する、防ぎ止める)、推、旋、摟(=手前に引く、かき集める、捲り上げる)、劈、鑽、刺である。

四、力量

(一) 総綱
劈、摟(=手前に引く、かき集める、捲り上げる)、搬(=運ぶ)、撥(=動かす、回す、つつく)、撐、展、抗(= 抵抗する、防ぎ止める)、横、抖(=振るう)、順、提、趟(=大股で歩く)、扒(=掻き出す、引っ掻く)、縮、滾(=転がる)、錯、兜(=包む)、擰(=捻る、絞る、捻る)、沈、託、分、閉、捉、頓(=少し止まる、急に)、吞、吐。

(二) 分布
1、头:撐、擰(=捻る、絞る、捻る)、頂、縮
2、肩:撐
3、肘:横
4、手腕:勾(=ひっかける)、錯、斂(=収める、しまう、潜める)、抗(= 抵抗する、防ぎ止める)
5、腰:揺、旋
6、胯:坐、挫(=くじく、抑える)、懸(=ぶら下がる)(旋)、提
7、膝:撐、縦
8、足腕:刀、叉、分、刺

(三) 運用(四十四種)
1、渾元争力:争力は争わないところはなく、四肢百骸、大小の関節、争わないところがなく、虚虚実実、松松緊緊は実際上の争力であり、争わなければ出て来ず、宇宙には争わないところはなく、人身の四肢百骸は争わない時がなく、包括すれば渾元の一争である。
2、大気呼応:大気と人体は繋がって呼応し、一動一静、全て利用し、反応させることができ、站樁を長い間行えば日ごとに膨張し、大気発生の感覚があり、入門することが易しくなる。
3、渾噩逆体:全身のいかなるところも、隙間がないようであり、所々に逆力があり、どこを打たれたとしても恐れず、順当な力量がないようであり、また極には順当であり、これは矛盾中の力量の統一である。
4、動静互根:動静は一つの整体であり、互いを根となし、動は静であり、静は動であり、一動一静は互いを根となし、松は緊であり、緊は松であり、松緊緊松は行きすぎず、虚は実であり、実は虚であり、虚実実虚は中平を得る。この意は作用力と作用力の起こりが複雑に錯綜する作用である。
5、遒(=迫る、接近する、堅固)放本同:力量は遒勁ではなく、放の力量は大きくはなく、遒は勁を必ず得て、放の力量を大きくしなくてはならず、放を望むならまず遒を行い、遒を望むならまず放を行う。
6、有無統一:有無は一つの事柄であり、有ることによって無いことを見ることができ、有形のものは遂には消えてしまい、有形からないものを見ることができ、有がなければそこから何が出てくるのか知ることはできない。総じて、有が有る日、有が無い日があり、応じて活用する。これは人情の道理と同じで、高尚で傲慢な人は他人に嫌われ、謙虚な人ほど尊敬され、心に響くものがある。 学術、物質、事、人情は皆これである。
7、順力逆行:手が後ろに引かれれば、力量は遠くに出て行き、手が前を向いて行けば、力量は後ろに来る。
8、勾錯刀叉:有形無形の両方の方面を包括し、形象について述べれば、手を出せば鋼にやすりをかけ、手を回せば竿を引っ掛け(実際上はまだ動かない)、全身は大浪が起きるようで(誰も見ることはできない)、全身に力量があり、毛髪は戟のようであり、ナイフとフォークが所々に有るようである。この方面は形容するのが易しくなく、精神の力量が存在し、無形は一種の意念の仮想であり、本物のようにすべきではなく、有意と無意の間は形に露われない。
9、不動の動:外形は不動ならば内部はいっそう快であり、外部の動が多くなれば、内部は却って慢となる。その原因は動けないことは動けるということであり、一動一静の中で「動は静であり、静は動である」という原則を掌握し、動けない人は初めて練功するときはさらに応じて動くことができず、不動の動は生き生きとした止まない動であり、一動を打破したものが真の動である。動くことができる人の内部は更に快なのであろうか? それは動がどこから来るのかにより、動、頭、手、足、身、肩、肘、膝、跨、の全ては假借、神動、意動、力量動ができるが、形式上には現れず、力量が最大になっても形式上は応じず、動静は互いを根とする意である。動静の二字は研究が完了しておらず、更に複雑である。
10、斜正互参:斜面は正面であり、正面も斜面であり、支撑面と同じではないため、全身の力量と関節は互いに影響があり、ただ力圓を成して止まる必要がある。一動は横であり、横は正面であり、一作用は斜面で、作用する時は人が見ることができず、緊は正面と斜面の位置で交錯する。
11、多面螺旋:全身の各部位の僅かな一動作は全て螺旋力を有する。この種の力が形成される原因は以下である。随意の動作時は全身の大小の関節は、鈍角三角を形成する部位を持ち、この時の力は膨張を欲し、収斂を欲し、全身の各部は全て螺旋力を発生させる。腿下は連帯して応じ、この種の力は電力の様であり、人に衝突して遠くに跳ね、この種の力を用いる時は全身は全て鈍角三角形を成し、突然に方向を展開し、爆発する様であり、一回の「砰(銃を撃つ音)」のように螺旋力が発出される。
12、面積虚実:「平面積はない」及び「固定的なものはない」という詞句は面積虚実と解釈するだけでは十分ではなく、全身の各部の筋肉を「盆内の珠」が永遠に転がるような動きを保持することが大切で、停留する時がない。
13、形曲力直:形が曲ではなく、力が直でなければ、真の力量を運用することができず、研究と芸術もこの様である。直面積に成った時は、前後左右は呼応せず、形が曲なら前後左右全てに力量があり、どこにでも用いることができ、形が曲でなければ必ず破体し、力量は自然に突出し、この種の力は役に立つことがなく、ひいては用いられることなく瓦解し、形が曲であれば、力量は方向がなく、四面全てに用いることができる。美術家が石を描く場合は、絵は圓のようであり、意図しなかったとしても、一定は曲折しており、平面積は存在しない。まとめれば、平面積は力量を持たず、作用は大きくない。「起伏昇降」、「進退吞吐」は虚実の大意を表しており、力直は形容が易しくなく、力直は各方面全てで力があり、力が圓であったとしても直になり、その中には螺旋力を含み、波浪のような前進を形成し、表面は見ることが易しくなく、旋繞(=渦巻く)の直線のような力量をがあり、旋繞と直は矛盾の統一であり、使うときは具体であり、力がなければ役に立たない。
14、神(形の字の疑いあり)松意緊:神松は明快で、意緊は鍛錬中に探し求める。具体的に「神」と「意」の区別について言うと、神は第一信号系統であり、突然驚くと神が動き、意は第二信号系統であり、驚いたあとにどうするか思量する。神は本能の反応であり、意は主観の能動的な作用を包含すると言うことができる。「神松」は全身を放松し、松でないところがなく、筋肉、毛髪、気血の運用は阻ばない。「意緊」は意が気を領導し、意緊とすることで気血の運行をさらに快とする。
15、剛柔相済:剛は硬ではなく、柔は軟ではなく、百錬の鋼は指に巻きつく柔らかさがあって、剛と見なすことができる。柔は真の剛であり、百錬の鋼は骨の柔らかさに入り込む柔らかさがあり、磨かれた鋼は剛と見なすことができ、表面上は硬いが、押しつぶせば真の剛ではなく硬であり、剛は鍛錬によって剛となり、百折しても撓まず、人は推し量ることができず、剛柔相済となる。
16、無形神似:形は動かず神意が足り、空気中を遊泳するのに似ている。
17、進退反側:退く時の歩は軍の駐屯地であり、畜を含み発を待ち、進む時は必ず全体を統合して動く必要があり、形を引き抜くことも揺れ動くこともなく、横は裹(=巻く、巻きつける、くるむ、包む)の力で、開合は受け入れることができない。反側と斜角は一つの意思で同様の作用で、左右を防備する。
18、旋繞(=巻きつける)撐擰(=捻る、絞る、捻る):旋繞を見ると、実際は撐擰であり、後ろに拉き回縮し、左右前後に撐擰の力は全てこのようである。
19、滾(=転がる)錯双迭(=代わる代わる):滾錯の力を相手の力を破るのに用い、手擠(腕部付近)を用い、擠の腕の力量は旋転し、斜方に進んで打ち、この種の力量は身動、力動、精神動であり、手が一動して破体すれば、全く面目なし。
20、半譲半随:技撃の力量は譲であり、随でもあり、半譲半随の一刹那があり、本身の力量が起こればすぐに相手を撃つ。
21、随譲牽随:相手の手が自分の身の上を按してきた時は、互いに相手に随い合い、重心は自身の身体上に置き、その後たちまち撑(=支える、持ちこたえる)とし、相手の撑が出るのを把握し、この力は恐れを知らずにやれば、上手くいく。
22、迎随緊随:この種の力は作用が大きく、実戦の発力時に全て用いることができ、相手の力を迎えて随う。緊を要す故に、松はこの種の力ではない。
23、截(=断ち切る)譲截迎:随譲中に截の作用がある。
24、空気遊泳:全身四面八方の全てに阻力の意思があり、運用時は阻力は増加もしくは減少し、水中を遊泳する如くである。阻力を減少させる方法は、肩と胯を扭(=振り向く、くねらせる、掴み合う)、錯(=すれ合う)、搓(=こする)である。巧妙霊活は、肩と胯を使い、肩と胯が動けば、腰が随って動き、空気遊泳は寄り合う抑揚を包含し、虚霊は独りで存在し、触れる意を聴き、同時に物と遇って、力を発揮し、収斂すれば自在に運用することができる。
25、锒頭(=金槌)拷(=打つ、殴る)打:身は金槌のようであり、力は機船の如く、連珠(=続けざまに発射される大砲)が発出されるのに似て、発せられる力は拧(=絞る)でひっくり返らず、直線で一瞬で短ければ行うことができず、できたとしても力量は正しくなく、用いられる力は継続の力ではない。「意断神連」に一定通じる必要がある。
26、推拉互用:絶対的な力量はない。
27、控制平衡:控制力は、鳥が飛ぶのは難しいようで、鳥を握り、力を用いれば行くことができず、力を用いなければ飛んで行ってしまうが、握って死なせることも、譲って飛ばせることもしない、控制平衡とはこのようであり、故に霊巧な力を合わせる必要がある。曰く「力は火薬、拳は弾の如く、霊機の一動で鳥は飛ぶことが難しい」であり、鳥を吸いよせるようで、平衡でないところをから平衡を得るように控制し、天地の間に大気の圧力があり、地心は吸力があり、人体は動力があり、「絶対的な平衡」はない。一般にこの種の力は蛇動の力、あるいは蟒(うわばみ)の力、兎が起き、鹘(はやぶさ)が落ち、龍が潜り、鹰の胆、虎が看るである。静中に動があり、動中に静があり、一羽も加えることができず、蚊と蠅は落ちることはできない。
28、单双軽重:控制平衡に近似し、控制平衡は平衡でないものを控制によって平衡とする。单双、松緊、虚実、軽重の全てには関係があり、控制平衡は单双と軽重から生まれる。

以上の二十八種の解釈の他に下記の十六の説明できない解釈がある。

伸縮抑揚  起頓吞吐  縦横高低  遠近長短 分閉開合 提按抗横 悠揚撐抱 翻揚裏擰  沈託提縦 鑽提捜索  擰巻惰漲  挙抗推旋  捜劈鑽刺  斜面三角 杠杆滑車 蓄弾驚炸

五、詩詞

肩を脱ぎ腕を松として腰をものぐさに束ね 神情と意力は餅に似て 一切の知感は不要 静かな室の長い露は赤い線

站樁は従来から喜平でなく 養生は古貴平庸 神は象の外で自ずと動き 意は無念中に妙が存在する

全身の筋肉は青雲を掛ける 毛髪の根は暖風に揺れ 慧眼で三千客を黙って観察し 耳を凝らして人嬌の息を聞く

滄海では波が飛び遊龍が戯れ 雲が流れ月が吐き紫の虎が叫び 假借は無窮で象は無窮 蓬壺が六鳌を踏むが如く

神は霧の中の豹の如く様子は窺管(=天文の測量道具)の如く 気は霊犀に似てこの世を切り開ける

養生は外観を新しく分け 筋は勁力を含み骨は神を存し 静は伏せた豹の如く空が横たわる如く 動は蛟が挟み浪が奔り

霊源を吸っては入って宇宙に合い 喊声と叱咤は風雲を走り 千年後に素問を知らず さらに多くの人が障害を打ち破る

動かざるは山岳の如く 南を指すは月の影の如く

無窮は天地の如く 充実するは穀倉の如く

養生は喜平ではなく どうして平庸を尊ぶのだろうか 身が動くは象の外を超えて動き 法は無念中に存在し 探求は精造を求め 虚無と空を利用し 意の力は猿に似る

脚が歩くは猫の軽さに似て 神意は自ずと内から変わり 力は遠方より聞き また触れず離れず 日が経てば成功する

眼底と手腕は全て痕跡を留め 直は旋繞力を取り横は撑(=支える、持ちこたえる)による 矛盾は錯綜し統一され 精神のてこは長く伸びる

拳学の理は精に至り 虚実の存在を運用し 霊機は自ずと内から変わり 力は遠方より聞く

身の動きは猿の敏捷さに似て 歩く踏むは猫の軽さに似て 忘れず助長せず 日が経てば自ずと登峰する

身の動きは浪が動く舞で 意力は水面を行き 龍が遊び白鶴が戯れ 笑みを含むは蛇が驚くに似る

筋肉は動力を含み 神は骨の棱が起きるところに存在し 風雲は輝く月を吐き 豪気は日と虹を貫く

太刀影は閃いて巻く枯葉で 笑えば天の果てまで鳥は飛ぶことができず  手を握れば提按斜撑(=支える、持ちこたえる)錯があり 光芒は鉄の如く無限の力があり

裹(=巻く、巻きつける、くるむ、包む)纏横繞は雲龍蛇であり 足はぬかるみと半尺の雪を踏み 雷と稲妻は交わって軽であり重である 眼と心と頭は鲸穴を除く

純粋な貧しさから豪快な挙動が出て あそびは惜しみない声を得て 大気は地球を包み 浪が振って朔風が巻き 呉鈎(=湾曲した刀)は連なって長虹を吐き 何度も発して声を叫び 山が揺れ谷が応じ 龍が舞って象をなす

飛ぶは梨花の影に似て 長歌を作り 山を整備し河を定め 七尺の体躯で 縦横を任せ 渾は山が崩れ潮が湧くに似て 金の鎖を切り開き蛇龍が走り 制約のある舞を打破する。

六、雑談

(一)、養生

我国の養生の学は歴史が悠久で、多くが失伝して散じたが、門派が代わる代わる出て、多くは不可名状で、伝家の独創の功があり、老手が遂に奥精に到り、各派で特徴があり、理論を所有し、多くが分岐して相生し、互いに用いる。その結果の多くが自ずと矛盾して錯綜し、弁証しては再び弁証し、現れては倒し互いに用いる。人体及び多種の生物の独自で特有の精神を発揮し、人は禽の如く飛べず、獣の如く走れないが、鳥獣の長所を採り、人身の短所を補う、これらは全て「形を以て意を取り、意を以て形を象る」であり、現れては倒し互いに用いる。体を訓練すれば、次第に少しずつ爆発雷稲妻、神を驚かせて鬼を泣かせる術を得る。これが他の精神を学ぶということであり、特殊な能力があり、ただその形体を学べば、容貌、性格、特殊な良能は完全に隠れてしまう。この種の方法は「ただ神意が足るを求め、形骸が似るを求めず」である。特有の毛髪は矛の意、鳥獣の無敵の精神を永遠に保持し、その知力は増長せず、特に本能が備わり永遠に存在する。鳥獣の頭は霊活で、目先は鋭く、肩は撑(=支える、持ちこたえる)肘は横で、指は弯曲して爪は拧(=捻る)で、頭と頸はさらに頂縮の力を増強し、鷹目、猿神、猫行、馬奔、鶏腿、蛇身の意であり、静は潮が湧いてみなぎるようであり、動は風雲が走るに似る。先師がいう「神は霧の中の豹の如く様子は窺管(=天文の測量道具)の如く、気は霊犀に似てこの世を切り開ける」。この種の練功方法は総じて肌肉の変動力を活発にして、骨の中に横撐擰(=捻る、絞る、捻る)転動蕩の精神の力量があり、力の発動は「有形無形」「有意無意」「有定位無定胃」「被動自動」「整体局部」が具体的にあり、微にわたる。

練功時は、姿式が何であるかに関わらず、また形式が繁簡であるかに関わらず、更に順序、先後に関わることもなく、精神支配の虚実の大意に関わり、力を得て舒適に到達するのが優れている。ある人は尋ねた。「力量とはどんなもので、この活動は何とみなせるのか?」。上は頭の頂点に至り、下は肩足に至り、一度発すれば牽引して全身が動き、手足膝胯は全て期せずしてそうなり、知らずして至り、五臓の内の全てが調和する。これは「活力は蛇の如く」「遊泳に似る」といわれる。ある人は尋ねた。「養生は何を動力にしているのか?」。養生と鍛錬は一つのことで、養生は基礎を定め、学習と鍛錬は須く稳定を経て、舒適を内在させ、虚を霊として黙を守り、万変に応じる。おおよそ神を良く静かにすれば意は分かれ、意の性は本定であり、欲があれば乱れ、実際は全てが虚像で、境に対して境を忘れなくてはならず、庸俗愚昧に堕ちず、現世に居て現世を出て、万念の中で「利害と恐れ嘆き」に沈まず、動の動は不動より出て、有為は無為から出て、無為は神息であり、神息は万念は全てを忘れ、耳目と心意は全てを忘れ、この妙の圓はいわゆる「耳目生意」に近似する。

(二)、論舞

運動は平易で近代の学術であり、趣は無窮で、古人の多くは礼、楽、射、御、書、数を基礎としたが、清の初めには余らず破壊され、以前の文人と武士は論じられず、入念に検討されることがなく、文人は拳技を良しとし、武士は文をすることができ、清の時代以来、拳学は埋もれて消えてしまい、舞道は更に久しく埋もれて聞かず、ことさら舞道を知らない。舞道は人類の天賦と良能を活かす一種の学術を啓蒙し、感情を発揮し、精神の最高芸術であり、病を退け養生し、性情を精錬して、愛好者は寿命がますます伸びる。舞道は遊龍、驚蛇、白鶴、揮浪の四つに分けられる。初めて練習する時は渾身の筋肉が伸展し、骨節は起棱し、頭直、目正、神荘、声静、手指腕は擰(=捻る、絞る、捻る)、勾、摟(=手前に引く、かき集める、捲り上げる)、扭(=振り向く、くねらせる、掴み合う)、錯、裏、撐、横、巻の力があり、両足は泥の中の雪を求めて動き、双膝は提縦、力は糸をつむぐようで、目の光は遠くを望み、手掌は痕跡を留めて、掌握するのは基本動作の後で、複雑な舞法に一歩進む。