意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

張礼義先生の著書『大成拳技撃樁的要点』

技撃樁は大成拳/意拳の技撃を学ぶための基本功であり、技撃に必要な様々な力を養うことを目的としている。 しかし、多くの同志が站樁で功を用いているとはいえ、要領がつかめていないため、結果はあまり満足できるものではない。 参考までに長年の研究と修練から得た経験を書き出してみる。

一、胯の掖(注:挟む)について。 普通の人が立っていると、片足に体重がかかっており、腿を支えている胯が外を向いている。 多くの人がこの癖を技撃樁に持ち込んでおり、力を省いているが、却って力を得られていない。胯の歪みが姿勢の完全性と充実感を破壊しているためである。正確な胯の形は「掖胯」、つまり胯が少し引っ込み、体の形が中正であり、胯が偏っていない状態である。

二、後ろの手について。 ほとんどの人は技撃樁の時に、常に両腕で肘を曲げて球を抱き、両肘が鈍角になっている。 この練習では後ろの手の攻撃の練習に欠陥がある。後ろの手が体から離れすぎているため、身体の力を手に運ぶことが難しい。 したがって、後ろの手は体に近い方がよく、およそ拳は2つくらい、肘はまた鋭角であるべきである(注:この観点には議論の余地があり、大成拳の理論と矛盾している)。 これは古代の馬の上で槍を持っているのと同じで、後ろ手は体に近づけて、戦馬の前方の力が体から鉄砲の先端に伝わるようにしなければならない。

三、意念について。大成拳は非常に意念を重要視している。良性あるいは良性に近い意念誘導は、鍛錬の成果を大幅に強化させることができると考えている。しかし、多くの人は意念を細かく、複雑にしすぎている。例えば、全身の各部位が繋がっているという意念を用い、全身に数十のスプリングが取り付けられていることを想像し、真実感を感じている。実際には、このような想像はすでに執着の錯誤に陥っている。数十のスプリングに取り付けられているという思いはいつでも(それが行き届いているかどうかに関わらず)、精神を緊張させ、伸びやかな状態になれず、精神と気勢の鍛錬に影響を与える。意念の運用の原則は「意図した時には行動している」とすべきである。先に述べた「全身の各部位が繋がっている」を例にすると、繋がっているという意識があれば十分であり、各部位が絶対的なスプリングや牛筋で繋がっていると考える必要はない。

四、「功夫」について。大成拳の愛好家の中には、大成拳の功夫(規範的には「功力」と呼ぶべきである)を一面的に、阻力感、争力感、舒適感などのある種の感覚と捉えている人が多い。練習でこれら感覚を経験したときに、すでに相応の功夫を手に入れたと考える。そのため、練習に要求される強度を落としたり、練習でこれらの感覚を熱心に追求したりする。 実際のところ、特定の感覚を経験することは、練功者が練功の初歩の状態に入ったことを証明しているに過ぎず、それは量的変化の始まりに過ぎない。深い功力を蓄積し、質的飛躍を成し遂げ、弱点を強みに変えるためには、絶え間なく鍛錬を続けなければならない。さらに深く功を修めていくと新たな感覚が生まれる。 しかし、最初の感覚も後の感覚も、功夫の深さを絶対的に評価する基準にはならない。感覚は功夫に付いてくるが、人それぞれ具体的な状況が同じではなく、功夫が増加するにつれて出現する感覚も同じではない。感覚を追求する人は錯覚を本当の感覚と勘違いしてしまう。

五、時間について。技撃樁によって一般的な功夫を獲得しようとする者は、一度に四十分未満の鍛錬をしてはならず、一回の鍛錬では毎回一面のみを鍛えるようにする。強度がどのような者であったとしても、左式で立ったあと、右式で立つ必要はない。深い功力と優れた武術の技術を身につけたい者は、絶対に一回の站樁は決して二時間を切るべきではなく、三、四時間の練習をするのが良い。大成拳の先達の修行者である姚宗勲、王選傑らはみな四時間以上立っており、長年にわたって厳しい修行をしてきた。 現在、大多数の武術家は仕事や学業を抱えており、毎日の拳を練る時間が限られているので、普段の生活に支障をきたすのではなく、分散している時間を日々の雑用を処理するために利用することを提案する。まとまった時間で站樁を行い、なおかつ今日は全力で左式を行い、明日は全力で右式を行うというように交代で行えば、強度を高めることができる。「歩くときも立つときも座るときも横になるときも拳意から離れてはならず、仕事している時も学ぶときも練功である」と言われる先達を模倣しながら、自分の実情に即しつつ、練功を切実に行わなくてはならない。また、矛盾樁を三年間行っても、大きな功夫を得られなかった人の多くは別の樁を練習するが、これは功夫が至っていないからで、大きな成果にはならないだろう。

技撃樁の形式は複雑ではないが、炉の炎が青く澄んだ色になるように(注:道教の修行のこと)、長年の孤独と苦難に耐えなければならない。大成拳に興味を持った人には、ぜひ詳しく研究してほしい。

下記で大成拳の技撃樁である矛盾樁の正確な練習法を紹介する。

矛盾樁は左右の二式があるが、ここでは左式(右脚を支持脚とする)を例に挙げる。両脚の前後を開いて立ち、左脚を前、右脚を後ろとし、両足の距離は一歩ほどである。左脚は力を使わず、自由に上げられるようにする。左脚は真正面を指し、右脚は45度外に向ける。左の踵は僅かに地面から離し、提(上に向かう)、纵(前に向かう)、扒(後ろに向かう)、踩(下に向かう)の力量を有し、後ろに引っ張る勁(扒)を主とする。つま先は地面をつかみ、左膝は前を支え、体の重心の60%〜70%は後脚にあり、前三後七、もしくは前四後六とする。後脚の足心(注:足の中心)は吸い付かせ、つま先は地面をつかみ、胯は後ろに座っていると同時に掖胯である。頭は支えうなじは縦にし、頭は真っ直ぐに目は水平にし、目線は正面を向く。身形は中正で偏ってはならず、斜め45度の角度で正面に対する。両腕を上げて、肩は外を支え、肘は横にする。左手は高くても肩までで、低くても眉までとし、視線を遮らないようにする。手心(注:掌の中心)は内側に向け、中指を起こし、他の四本の指は開いた状態にする。左腕の肘関節は鈍角となり、撑三抱七とする。正面から見た時に、左手の中指と手の甲が繋がっている箇所、鼻先、左足の親指の内側が地面に対して垂直な直線となる。右手は肩の高さで、手心は内側に向け、指の先を斜めに入れ、中指を起こし、他の四本の指は開いた状態にする。右腕の肘関節は鋭角となり、右手は上に鉤、下に挂(注:引っ掛ける、ぶら下げる)、上に提、下に按、前に推、後に拉の力を持つ。両手の前後の対応は、前の手は盾の如く、撐(注:支える、持ち堪える)、抱、擰(注:捻る、絞る)、裹(注:巻く、巻きつける)、巻の力を有し、後ろの手は矛の如く盾の後ろに隠れ、堅固な勇気でもって発拳を待っている。左式と右式は姿勢は逆になるが、要領は同じである。

初めて矛盾樁を練習する時は、精神を寛大にして、目は遠くを望み、体を緩め、心は穏やかで気持ちを和やかにする。形式は姿勢をきちんと整えていれば、基本的な要領はおおよそ把握できる。練功を積んで長くなってくると、功夫は深まってきて、徐々に要領が分かってくる。目の光は弱まり、「神不外溢」となる。功夫が深まると、神意はますます応じるようになる。それは霧の中のチーターのようであり、鼠を捕らえる猫のようである。まさに飛び掛からんとしながら動いておらず、襲いかかるようで機を待っている。鍛錬によって実践では体の霊活さと一触即発の能力が発揮される。

技撃樁を立つ目的は体の「整」を鍛錬することであり、その目的を達成するためにはまず「三大節」の練習が必要である。いわゆる「三大節」とは、両腕が弓、両腿が弓、向きが弓であることを指す。これは長い間、厳しく、体系的で、科学的な站樁を経て自然に形成され、全く作ろうとする必要はない。この時両手は向かい合いながら伸びており、二本の大刀を持っているように感じられ、相手が逃げ出すような気勢である。脚はスプリングを踏むようであり、身は高低の起伏があり、進退反側に応じることができる。身は弓弩のようで背骨から力を発する。この境地に至れば技撃樁を立つ初歩には到達している。さらに一歩進むには「三大節」を統一し、実態のある圓の力と、閉じているものを引っぱり、動かないものを推し、不落のものを壊し、立っていないものを釣り上げる構造を作らなくてはならない。このように体の「整」を鍛錬してこそ、将来技撃を深く研究することができる。