意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

常志朗先生学大成拳的経歴

常志朗先生が大成拳を学んだ経歴はとても珍しい。

常先生は小学生の時、王郷斎先生はすでに高齢で、常先生と王先生は10年近く同居していた。そのため、常先生が学んだことや得たことは他の王先生の弟子とは異なっていたに違いない。

常先生は王先生に師事する前には武術は学んでおらず、王先生の元を離れた後は医者となり、その他の拳術は習わなかった。ゆえに学はとても純粋で混じり気のない大成拳であった。

志朗先生が王先生の元で拳を学ぶ過程で、王先生は老婆心から口を酸っぱくして志朗先生に骨身を惜しまず站桩するように言った。本物の功夫を鍛えるためには、1日中ずっと出鱈目に振り回している「レンガを割る子供」であってはならない。

王先生の再三の説得で、常志朗先生は站樁に身を入れ始めた。数年後、志朗先生の功夫は目に見えて成長し、樁への理解はますます深まった。十七、十八の頃、阻力感を経験し、いつも大気と呼応するようになった。

若さゆえに志朗先生は王先生に背いて、時々他の人と力比べをしに行くことがあったが、その時には小手先の功夫を持っていたので首都の名人を含めた大人と力比べしても負けることはなかった。志朗先生は密かに得意に思って、自分の站樁は優れていると感じ、王先生から真伝を学び終えたと自認していた。ある時、気の運用で有名な人と拳を競い合いを行い、力量を比べて勝ったという話を二、三回王先生に伝えた。その度に王先生は「まだレンガを割っているのか。やめなさい。地に足を付けて功夫を練習しなさい」と話された。志朗先生は聞いていたがあまり納得できず、自分のやっていることはレンガ割りなのか? どうしてレンガ割りなのか? と思っていた。

王先生は常に常志朗先生に言われた。「今のお前は小さく、力がなく、厳しさに耐えることができない。お前が大きくなったら、技撃をまた教えてやる」。ある日の夕食後、志朗先生は興奮して王先生に拳撃について聞いた。直拳、擺拳、勾拳とは何か、話しながら実演してみせ、王先生にも直拳を実演してみるようにお願いした。

志朗先生はいつも言われていた。王先生は歳を取られて、子供が好きだったから、私が何を言っても苛立つことはなかったが、もし別の人があんな風に話しかけてきたらすぐに苛立っただろう。王先生の家に来るものは誰でも礼儀正しく、少し注意しないと叱られたが、私が何を言っても笑顔だった。ある時私がそれを見抜いているので、辛抱できずにこう言われたことがある。「出ていけ!老人は若いやつのためにいるわけではない」。王先生は私を可愛がってくれたが、それは年齢が非常に離れていたおかげだろう。

しかし今回、志朗先生が王先生に直拳の実演をお願いした時、王先生は少し怒って、渋りながら腕を出した。王先生の実演された直拳は特別揃っているわけではなく、拳頭は中に曲がっていた。王先生の直拳が特別優れていて猛威を振るう、という様子はなかった。これを見て志郎先生は喜んだ。内心、「この拳で人が打てるのか?」と思った。志郎先生は「王先生は正しくない、このようにする必要がある」と王先生に実演して見せた。王先生は慌てずに、「お前は猿のようだ」と言って立ち上がった。手を出して、「お前はこの直拳で人が打てるのか」と言ったのか。打ってみろ。志朗先生は力強く拳の構えを作った。王先生は一歩前に出て手をかけて、「打ってみろ!」と言われた。王先生は志朗先生のどこを握っているというわけではなかったが、手首を手首にかけるだけで、志郎先生はもがいて動けず、自分のどこにも勁が使えず、全く勁がなくなってしまったのを感じた。志郎先生は唖然としてしまった。

「動け!」王先生は言われた。「動けない!」「打て!これがお前の直拳か?」志郎先生は本当は打とうとしていたが、全く勁がなくなってしまった。

志郎先生が「打てない」と言うと、王先生は「なぜ打てないのか?」「わからない」。王先生は手を離して言われた。「自分でよく考えてこい」。志郎先生は何が起きたのだろう?と思い、半日考えてみたがわからなかった。ただ王先生の功夫が高いことを知った。

一般的に王先生が人前で拳術(技撃)について語ることはなく、外に話される時は養生についてであって、技撃についてではなかった。家では話したい人に会った時に技撃の話をするぐらいだった。しかしそれからの数日間は毎晩、王先生は志朗先生に技撃について語られ、志朗先生は王先生の功夫がどれほど深く、自分の功夫がちっともないことを知った。ある日の晩、王先生は再び志朗先生と手を合わせ、言われた。「私がお前の目を抉れることを信じるか?」志朗先生は思った。「どうやって目を抉るのか?」。心の中でそう思っていたが、口には出さず、どうやって目を抉るのかを見てみたかった。志朗先生が怖くなかったのは、王先生が本当に目を抉ることはできないと知っていたからだ。先生は見抜いて、両方の手で找(注:探す)勁を用いて、人差し指と中指をゆっくりと目に向かわせた。志朗先生は左右の勁を使ったが、先生は横縦の勁を用いて、両手の指を目のぎりぎりまで近づけ、志朗先生の目と一寸の距離まで近づいて止まり、抉って良いかを問うた。志朗先生は二回抜け出そうと足掻いたが、王先生の指は微動だにせず、ただ横縦の勁だけを使って探っていた。志朗先生は焦り、「抉れる、抉れる」と言った。先生は「お前は二回言ったが、八回そういう必要がある。お前の功夫では八個の目があっても抉ることができる」。志郎先生は心から納得した。続けて先生は話しながらやってみせた。志朗の鼻をつかんでみせようと、鼻をつまんだ。耳を引っ張ってみせようと、耳を引っ張った。志朗先生は避けようとしたが避けられず、触れられた手は動こうとして動けなかった。足の底がぶれてしまい、左右に揺れ、じっとしていることができなかった。先生は顎を摘もうとして摘み、喉を掴もうとして掴んだ。先生が動こうとすれば動いていて、止めることができない。この感覚は王先生の両腕がクレーンのように力量が巨大で、体は重くないが、100斥以上のようである。志朗先生に接する両腕は体を思うように運ぶことができ、思った時には運ばれている。力強く静かに立ち、他の場所へ移動させた。突っ張ろうとすればその弾みで運ばれ、もう一度突っ張ると別の方向に運ばれた。これこそ順力逆行、沾、粘、連、随であり、素晴らしいものだった。

先生は言われた。「拳術界にはかねてより規則がある。1つ、目を潰してはいけない。2つ、股間を蹴ってはいけない」。志朗先生は言われた。「ではどうやって股間を蹴るのか?」先生は搭手を続けて、ゆっくりと足を伸ばした。志朗先生は全身が動かず、先生は蹴り終えたと言われた。先生は笑ったまま、姿勢を動かさず、搭手のまま金鶏独立の姿勢をとり、一本の腿を上げ続け、足で胃部を指し、これが踢胃だと言いながら、大趾で胃部を軽く押した。志朗先生は急いで「蹴らないで」と言った。王先生は笑っていた。いつの間にか先生が靴を脱いで靴下を履き、大趾で志朗先生の胃部を押していたことに気づいた。続いて先生は、腿を地に着けずに大趾で志朗先生の下腹を押し、向こうずねの上を押した。始めから終わりまで片腿で立っていて、志朗先生がどう抵抗しても、王先生はただ横縦の力を探し、身体は一切動かなかった。まさに神業だった。それから王先生は腳を下ろし、靴を履いた、その時志朗先生は支腿の横に靴があることに気づいた。靴を履いて、王先生は言われた。「お前が横になりたくないなら、私がお前をどこへ行かせたいと思っても、そこへ行かなければならない。地面に座りさえすればいい、もしそう座っていれば、私にはどうすることもできない。私はお前を抱えることはできないからね」と。そして、「先に左に行ってみろ」。志朗先生がこの時勁を探し用いると、王先生は左右に力を探し、志朗先生は左に向かった。先生はまた「今度は右に行ってみろ」と。志朗先生は心の中で、どこに行こうとしても右には行けないと思った。先生が右に力を入れると志朗先生は左に力を入れた。王先生は動きを少し速めて後ろに押し、志朗先生は無意識のうちに前に押し、王先生はその勢いで志朗先生を右に動かした。今度は「後ろに行ってみろ」と言いながら一撫でし、志朗先生は前に二歩歩いた、先生は「床に座って休んでくれ、お前も疲れたろう」と言った。先生が上に挑むと、志朗先生は忽然として床に落ちた。本当に不思議なことだった。始終先生との格闘で、志朗先生は本当に疲れて息が切れ切れだった。王先生を見ると、少し深呼吸をして、何事もなかった。非常に静かで、顔色一つ変わらず、心臓も跳ねず、その時先生は既に70歳だった。次の日志朗先生は体中が痛く、どこもかしこも痛んだ、そして風邪をひいた。

後に志郎先生は王先生の搭手が神業であると感じた。志郎先生の力は王先生にとっては麺のようなものだった。王先生の搭手は本当に素晴らしいが、技撃の過程でいかに搭手を行うか? 相手が搭手をしなかったらどうするか? ある日、志郎先生はこの問題を提起した。夜になり、食事も終え、お茶も飲んだ後、非常に静かな時、王先生はこう言って説明し始めた。「搭手の方法を教えよう。そこに立て」と指を北側の中央に向け、「こちらは南側に立つ」と言って位置をとった。先生は両手を頭上高く、目の上よりも高く伸ばし、ほとんど真っ直ぐにしてわずかに曲げ、下の脚は金鶏独立の姿勢で、腰は前に突き出していた。室内を素早く前後左右、高低を変えて無限に変化し、蛇行する足取りだが、一歩一歩が金鶏独立の姿勢で、手には多くの動きがあったが小さく、とにかく志郎先生の面門を離れなかった。王先生は「機会があれば打て」と言いながら、いつも片脚で立ち、もう一方の脚は地面に触れても虚に置かれていた。志郎先生はどこに打つ機会があるのかと見たが、先生の両手は頭をしっかり守り、手は非常に長く伸ばされ、腰は突き出され、頭は前に出し、脚の曲がり角度はとても大きい。前、後、左、右、高、低と変わり、身を仰け反して高く伸び、突然に低く蹲って、まるで滑る龍のようだった。打つなど言うまでもなく、先生は動いている中での任意の一動がもう十分に厳しいものだった。志郎先生は機会を探したが、少し機会があるようで、距離が足りるように感じたが、それでもまだ適していないと思っていたら、一瞬の間に、先生は素早く前に踏み出して手を搭せた。「搭せたな」と先生が言い、次も同じように再び行った。先生はさらに言った。「私は歩幅を使わず、直線に進んでも搭手ができる」と言って、両手を伸ばし、一方の手で志郎先生の面門を指し、ゆっくり歩みを進めた。志郎先生は面門が空であると感じ、手を上げようとした瞬間、先生は一歩踏み込んで手を搭せた。再び、先生は前回と同じように、両手を伸ばして面門をわずかに前後に分け、ゆっくりと志郎先生に向かって歩んだ。まったく対処法がなく、手を上げると、一歩踏み込まれて手を搭せられ、手を上げなければ面門が空である。志郎先生はどうしようもなく感じたが、先生は突然立ち止まり、再び金鶏独立の姿勢をとり、「どうした?」と言った。志郎先生は「もう対処法がありません」と答えた。先生は「今はもう逃げる時間もない。距離はもう適している。守ろうと、攻めようと、私の次の一歩はすでに位置を奪うことだ」と言いながら一歩踏み出し、速くはないが、その一歩で志郎先生を壁に押し付けた。頭は壁にぶつかり、肩も壁にくっついた。その時、志郎先生の目から金の花が散り、頭はがんがん鳴り、心の中で「本当に凄い。先生のこの軽い一押しがまるで車がぶつかったようだ。先生の体の各部位は鉄のようだ。以前から、先生が人を投げても痛くない、立ち上がったら何ともないと聞いていたが、そんなものではない。先生は本気でぶつかっていない。もし先生が今の試合の中の速度、精神でぶつかったら、おそらく気絶してしまうだろう」と考えた。

ある時、王先生は志郎先生の全身どこにも功夫がないと言い、「お前の手首は柔らかすぎる(没力)、人を一拳打ったら、功夫のある者に手首を折られるかもしれない」と言った。志郎先生は信じず、自分の手首の力はとても強いと思っていた。先生は試してみるように言い、自分の体に向かって力を込めて一拳打つようにと言った。志郎先生は大きな力を込めて先生の胸部に猛打した。先生は胸を含んで両手で腕を抱き、ガッという音がして、志郎はその時とても痛いと感じ、本当に折れたと思い、先生を驚かせた。先生は押してみて、「折れていない」と言った。先生は非常に後悔し、直ぐに唸り、咳をした。本気でやっていたら、本当に折れていたかもしれない。その時志郎先生の手首は腫れ上がり、長い間治らず、問題を残し、今でも志郎先生の手首は力が入らない。それが当時王先生が与えたものだ。

また別の時、先生は志郎先生に自分の力を試してみるように言い、ただ手の甲で胸部に軽く弾くようにと言った。非常に軽い力で、先生が使ったのはわずか二、三分の力だが、志郎先生はそれに耐えられなかった。弾かれた部分は、まるでナイフが前から刺し入って後ろから出てきたようで、しかも抜かずにそのまま残っているような痛みだった。本当に死ぬほど辛かった。

その日々に、先生は志朗先生に多くの技撃のことを話し、多くの技撃の動作を行い、それは志朗先生がこれまで聞いたことも見たこともないもので、志朗先生を大いに驚かせた。王先生が言い、行ったことは決して一般人ができることではなく、必ず大功夫の基盤の上に築かれているものでなければならない。それから志朗先生は何が技撃で、何が功夫であるかを知り、自分が功夫のない人であることを知り、功夫を得たいならば、よく站樁しなければならないということも知った。これが恐らく先生の良苦心であるだろう!

王先生の腿上の功夫は非常に良い。動く時は常に金鶏独立を形成し、歩幅は特に大きく、我々一般人の二倍の距離である。技撃の時は上で手を搭せ、脚下で一歩跨ぐと人を過ぎる。先生が摩擦歩を行う時は、膝は胸窝まで持ち上げられ、足は首の所から出ることができる。身体は高くも低くもできる。低い時は脚の曲がり具合が特に大きい。先生が実際に動く時、歩幅は常に整歩である。現在のアメリカのプロボクシング、ムエタイ、散手、跆拳道、自由搏撃(これもトップレベルの高手)で、対抗中に整歩を用いて相手を打つ選手は一人もいない。彼らが用いる歩幅は我々の大成拳では「寸歩」と呼ばれるだけのものだ。しかし王先生はそれを実現した。王先生によれば、中国には多くの拳術家が技撃中に整歩を用いることができる。例えば李洛能、郭云深、謝鉄夫、薛四爷、尚雲祥などである。

王先生の搭手の功夫も絶技である。先生の両手はまるで二本の鉤のようで、一度手を搭せたら逃げることは考えられない。先生の言葉を借りれば、「一度手を搭せれば、相手は先生の杖になる。特に安定しており、手を搭せないよりも安定している」という。先生の力の使い方はさらに巧みで、手を搭せると相手の力を迎え撃つことができ、相手は全く逃げられない。まるで粘着されたかのようだが、起、落、鑽、翻、横、竪の力の使い方は実に巧妙である。だから、先生が技撃する時、上で手を搭せ、下で一つの矢歩を踏むと、人を投げ飛ばすことができる。まさに「手は二枚の開き戸であり、勝利は全て足にかかっている」である。

先生が著作で述べた武術の諺(形意拳谱で語られる諺も含めて)を、先生は全て成し遂げることができる。王先生の技撃の過程は大成拳の理解に計り知れない影響を与えている。その期間に、先生は多くの自身の功夫を披露し、志朗先生は本当に目を見張り口を開けて見ていた。彼はすでに数年間先生に従っていたが、先生にこんなにも神通力があるとは思ってもみなかった。本当に心から感服した。一生に一度、こんな武術の巨匠に出会えるのも本当に幸運である。

王先生が亡くなってから、志朗先生は他の拳師に拝師することはなかった。彼が生涯出会った拳師は、王先生と比べて、まるで天と地ほどの差があった。その期間、先生は常に志朗先生に対し、しっかりと功夫を積んで站樁するように、そして站樁の功を突破するように告げていた。站樁の功を突破しなければ、先生が成し遂げたことは何一つ実現不可能だという。先生は言われた。「私は何もできない、拳撃もできないし、摔跤もできない、ましてや直、擺、鈎もできない。ただ少しの功夫があって、搭手で人を投げ飛ばすことができ、足を挙げれば人を転ばせることができるだけだ。人を蹴ることは本当に敢えてできない、一蹴りしたら人を壊してしまう。手で人を打つことも敢えてできない、手が人の体に触れただけで人が壊れる。私が敢えて打てるのは人の腕だけだ、腕は耐えられる、壊れないから。だから搭手で人を投げることができる」。

先生は常に「王道に近道なし、大気は必ず晩成する」と言っていた。我々の拳は大学問である。大学問ならば、数日間で身に付くものではない。少なくとも十年の苦労を要する。大便を掃除する知識は浅く、数ヶ月学べばそれができるようになるが、博士の学問は深い。我々の拳は博士課程を学ぶようなものだから、時間は当然長くなる。先生は自信があり、「一時の勝敗は力によるが、千秋の勝敗は理による。私のこの拳には道理があるから、早晩人々に認められ、早晩発揚される。我々が代々伝えていけば、金はいずれ人に拾われる。土に埋もれることはない。学問が深い人ほど我々のこの拳を尊敬する。なぜなら、この拳の学問は彼らが学んでいるものよりずっと深いからだ。だから、我々のこの拳は学問のある人を恐れない」と言っていた。

王先生は志朗先生に向かって何度も繰り返し言った。「もうレンガを割るようなを練習するな、拳を振りまわすな、目を閉じて散手をするな、手を出したら大きな効果があるようなことを練習するな」と。以上の四つの言葉は王先生が他の対抗運動に対しての総括である。「これらに従ってしっかりと功夫を練習し、中を得る力を練習せよ」と。先生が根気強く教え導いたおかげで、志朗先生は大いに恩恵を受け、そこから真に大成拳が何であるか、大成拳の奥妙が何であるかを理解した。