意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

渾元樁階段性提示(『大成拳新視野』より)

設臨界線

水温は0度を境にして、それより高ければ水となり、低ければ氷となる。この発想から、渾元樁を研究する際には、学習者の前に想像上の垂直な臨界線があると考えるべきである。体の前傾の度合いはこの線上にあり、安定と不安定の境界にある。もし身体が臨界線を超えて前に傾けば、前に歩を進めざるを得ず、静立の姿は崩れる。逆に、立身があまりに正直で臨界線に触れなければ、体が安定しすぎることを意味し、静動の転換が適時にできないことになる(站樁は将来の戦いに備えるためのものである)。したがって、過度に安定したり不安定であることは、站樁の弊害である。短距離の選手の準備姿勢が安定と不安定の間にあることも、臨界線の設定の科学性を別の角度から証明している。

具体的な練習時には、学習者は頭頂と足心の垂直線の相抜を保持し、全身は石碑のようにわずかに前に傾いている。膝は前脚のつま先を超えず、体の平衡は失われそうで失われないような感じを保ち、同時に背骨を後ろに引き、前に傾く力と平衡を取ることで、常に前進しよう感がある。しかし、上半身を前に出し過ぎないように注意し、頭を揚げて尻を突き出すことを避けるべきである。先輩が樁を指導する際には、「高い煙突の端に立っていると想像し、少し前に動くと落ちるが、反対に仰向けや後退してはいけない」と例えていた。これにより、学習者の前傾の度合いは臨界線に制御される。臨界線の設定は渾元樁の初級段階で重要であり、矛盾樁を含むすべての功法に広範囲に影響を及ぼす(渾元樁の側面図18を参照)。

与外界争衡

長い間、大多数の站樁研究者は自己の内面にのみ焦点を当て、地に根が生えたように立つことが站樁の唯一の目的であると信じ、練功時には力を用いて気を下へ沈め、大きくしゃがんで、重心を体の下半部にしっかりと沈め、推、拉、拨、圧に動じない半歩を誇りに思っていた。しかし、一つの長所があれば、それに伴う短所もある。このように練習すると、移動が制限され、身法の変化が停滞し、技撃動作を行う際には、樹を揺らすような身体の震えと手の打撃の勢が出にくくなる。

大成拳要論には「自身にすべて備わった後に、身体の外に求める」とあり、これは站樁は自分自身にのみ焦点を当ててはならず、静的な重心の安定が技撃の対抗で変化する瞬間に機能しないことを示している。求めるべきは動的な平衡であり、正確に言えば、自身と外界との間の動的な争力の平衡である。この状態でなければ、積極的な対敵の安定した重心を実現することはできない。この技を得るためには、練功者は樁法の各要点を厳守しつつ、意念を外に向け、意で形を導き、形で力を導く必要がある。

具体的には自分と外界の特定の目標との間に牽挂や呼応を生じさせる。例えば、遠くに大樹があると想像し、両腕と樹の先端が見えない二本の線でつながっていると想像し、意念で整体して後ろに引き(=拉)、腕の上の線が引っ張られ、樹がゆっくりと曲がるようにする。しばらくすると、引っ張らずに送り出すように変え、樹を元に戻す。このような繰り返しでは、意を用い力を用いないことが求められ、外見上はまったく分からないようにする。このように人と樹との間の相互作用の想像上の呼応により、渾元力は体外に運ばれ、想像上の樹と互いに均衡のある作用力を生じる。これはさらに、人と宇宙の間で争衡することを追求できる。

拳論では、このような練習を「勁は体内から、力は形骸の外から発揮される」と呼ぶ。経験から、外界との争衡は体の支撑機能を運動機能に変えることができ、これが渾元樁の中級功夫として挙げられる理由である(添付の図19は渾元桩の側面図と想像上の木との牽挂を示す)。

不発而発

一般的な発力は、関節の屈伸に依存している。この過程は中枢神経によって制御され、大脳からの指令により運動系統が駆り立てられ、作用力が生じる。科学的に検証されたところによると、視覚器官からの信号を大脳が受け取り、処理してから発力動作を完了するまでに、最短でも0.3秒の時間が必要である。しかし、厳格な訓練を受けた拳士は、拳を出す最速の頻度が1秒間に6拳であり、これは防御者の大脳が反応して動作を指揮する時間を大きく上回る。したがって、思考しながらの防御反撃は、高度な実戦に対応することができないことがわかる。

渾元樁が大成拳体系の核心功法と見なされるのは、練習が高度な段階に達すると、不発でありながら発することができるからである。渾元樁を高度な段階まで練習すると、毛が戟のように立ち、肌肉は一つのようになり、身体は鉛を注がれたようで、整体が一体となり、熱力が全身に広がり、身体全体が弾力に満ち、押すとばねのように、叩くと球のようになる。仮に拳脚を出されたとしても、站樁している者は関節の角度を変えたり、肌肉を収縮させたりする必要がなく、ただ站樁の姿勢を微妙に変えるだけで、斜面を内抱する腕で来勢を迎撃する。期せずしてそうなり、知らずして至り、一触するだけで敵を飛ばし、相手は落ちても何が起こったのかわからない。

渾元樁が不発でありながら発するのは、「弦緊弓円、蓄力待発」という状態から来ており、強大な張力が全身に満ちている。敵の拳脚が前腕の外側に当たると、内蔵された張力のある弓の背に当たるようなもので、中枢神経からの指令を必要とせず、円く張られた「弓」が外力を反発させる。これは站樁の蓄勢状態下の反撃であり(弓弦のように引っぱられた(=拉緊)背中の肌肉群が放松していないため)、不発力の発力と呼ばれ、反撃の強度は敵の攻撃力の大きさに依存する。したがって、不発でありながら発することは渾元桩の高度な功夫とされる。

黄景文『大成拳新視野』より