意拳浅談

意拳/大成拳を研究しています。翻訳は意訳です。

武術(うーしゅう)1993年春号

凄絶なる実践拳法 意拳

  • 登場する先生
    • 姚承光
    • 姚承栄
    • (姚宗勲)
    • (佐藤嘉道)
    • (横浜太気拳協会)
  • 内容
    • 姚兄弟の語る意拳の成立と技術内容
    • 意拳 技術編

印象に残った言葉

(王薌齋先生に挑んで壁に飛ばされたことについて)どうして体に触れただけで飛ばされたのか。拳で打って、王老先生が体を震わせると、飛ばされた(姚宗勲)

意拳が重んじているのは意識だ。我々の大脳の高度な精神思惟だ。意識を用いて全身の肢体、筋肉と神経を統帥する。このようにしてはじめてバネのような力を養うことができる。でんでん太鼓をふるうような、海の龍のような纏綿として途切れない力と爆発力を養うことができる(姚承光、姚承栄)

拳術の力を追求すると、思えばそれですぐさま力が到達するようになる。意が到れば力が到り、力が到れば意が到れるようになれる(姚承光、姚承栄)

(試力について)その主要な目的は、我々が站樁を通して模索した内在する変化を、試力によって、移動する状況のもとで、動く状況のもとで、内在する力を大きくし、身体各個の力の変化の過程を体現することだ。(姚承光、姚承栄)

(発力について)全身を放鬆し、身体内部すべて、運動の迅速さ、変化、反応が非常に敏捷な状態を保ち、相手に触れたときに猛然と爆発させる(姚承光、姚承栄)

(試声について)気を完全に内部の膨張と発力に結び付ける。瞬間的に、ちょっと圧迫するこの時、体外の肢体のものと全身の発力を結び付ける。内臓と横隔膜の圧縮による気、それを内外合一にさせる。このようにして全身の発力の協調を促進する(姚承光、姚承栄)

(試声について)この時息は吐かない。まず息を吸って下へ息を沈める。この息は体にあるようにする。「提」というのは吸うことで、提と沈の間に、少し提にしたら大いに沈める。循環させて息を用いている。非常に短くすれば「ユッ、ユッ、ユッ……」となる(姚承光、姚承栄)

毎日練習して拳を練り終えたら、公園にいって林の中で「ハァーッ」と声を出す。この息を吸ってそれから押し下げる。中国で歌を歌うのと同じだ。声の訓練をしなくてはならない。声を出して練習する。いつも声を出して練習する(姚承光、姚承栄)

もし自分が完全に抱きかかえられても、頭は相手に制圧されていない。肩も力を発することができ、膝も力を発することができ、渾元力の爆発、渾元力の変化を通して相手の重心のバランスを破壊することができる。全身どこも拳だ(姚承光、姚承栄)

推手では、自分を守り、相手の手を殺し、それと同時に相手を破壊するのを重んじるのが原則だ(姚承光、姚承栄)

(推手について)実際には相手を打撃するのだ。もし相手と手を合わせたら、相手と二回も手を回すようなことはない(姚承光、姚承栄)

推手では、自分を守り、相手の手を殺し、それと同時に相手を破壊するのを重んじるのが原則だ(姚承光、姚承栄)

(姚宗勲先生と澤井健一先生について)二人は技術面では互いに研究し、感情的にも最も近く、仲がよく、二人はいつも一緒に食事をし、酒を飲み、しょっちゅう徹夜して朝を迎えた。しかし、遅くまで酒を飲んでも、次の日には早く起きて一日十何時間も練習した(姚承光、姚承栄)

(記者が姚兄弟のどちらかのパンチを受けて)パンチはボクシングでいうロングフックのような感じで、外見からは中国武術というよりフルコンタクト系の空手を連想させた。しかしその正確さはかつて体験したことのないものだった

(記者が姚承栄先生?の手刀を受けて)指だけを当てるようにしてもらったものの、カナヅチで叩かれたような硬さと弾けるような痛みである。しかも、これまでの技もそうだったが、一回で終わらず延々と何回も打つのである

(記者が逆に姚承栄先生?の腕に手刀を打って)固定された鉄棒を打っているような感触。力を入れて頑張ってくれているという感じではなく、非常に堅固な芯があるような感じである。当たる瞬間、姚氏は1、2センチだけ腕をひねりながら上に持ち上げる。これだけでこちらの手を弾き返し、痛めつけるのである。2、3回打つと、痛くて強く打てなくなった

(記者が姚承栄先生?の二本貫手を受けて)試しに指を見せてもらうと、太くてがんじょうそうな指であった。しかし、特別に指を鍛えることはしていないという。リラックスした状態で体の中から力を出し、それが指先まで伝わるから瞬間的に強くなる、ということなのだろう

(記者が姚承光先生?の掌打を受けて)この体験を通じて一番感じたのは、「柔中の剛」ということである。姚兄弟に触れて感じたのは、とにかくかたい、ということであった。もちろん姚兄弟はリラックスしている。だが、脱力から生まれる剛、という意味だ